哲学の小部屋


このページでは日常生活で見かける出来事について、哲学に考えた実例を示します。哲学というと難しそうで拒否反応を示す人がいますが、実はそんなに難しい事ばかりではないと理解していただくために話をしてゆきたいと思います。Web上には様々な哲学「的」情報が散在していますが、その多くは専門的過ぎたり、また逆に素人向け過ぎたり、あるいはまた独断的過ぎたりで、少なくとも私にはピンと来ないものばかりでした。

私はプロの哲学教師ではありませんし、そもそも哲学にプロはいないと考えています。少しばかり考えるコツを大学で学んだ事があるだけの素人です。ですから話が上手く行くかどうかは分かりませんが、どうぞその時は哲学で飯を食ってる連中にでも質問して下さい。彼らは貴方の質問に答える職業上の義務があるでしょうから。

人間と人間

最初に扱うのは人と人との関係です。これは非常に厄介な問題を含んでいて、世界や宇宙の難問よりもはるかに難しいのです。なぜなら私が人間なら相手も人間という、非常に当たり前の事実があるからです。世界や宇宙は「意思」を持ってはいないように思えます。これらのものに「意思」や「意図」と呼べるようなものがあるかどうかは、また別の問題として考えなくてはなりませんが、ここでは人間と同じ意味で「意思」を持ってはいないと考えておきましょう。意志を持っている人間は、しばしば予測不可能な行動を起こします。これが極端な人を天邪鬼(アマノジャク)と言いますが、多かれ少なかれ人間には天邪鬼な所があります。

天気予報で降雨確率が50%と聞いても、傘を持って行かない人がいます。天気予報に詳しい人なら、降雨確率50%が実際にはどの位なのか分かると思います。どう考えても50という数字以上に体を濡らしてしまう確率は高いのです。しかしその人が今日遠足に出かける予定だとしたらどうでしょうか?

せっかくの遠足に出かけるのに、雨が降るのを期待する人はいません。期待するのはそもそも遠足に行きたくない人だけです。そういう人は何故か遠足の朝になると、お腹が痛くなって当日欠席してしまいます。ですから行く人は、晴れて楽しい遠足を望みます。なのに降雨確率が50%もあったとします。そんな時、意地になって傘を持って行かない人というのがあり得るのです。しかしそれを人は天邪鬼と呼びます。冷静な人は悲しいけれど念のため傘「も」持ってゆくのです。

嘘をつくのが人間?

このように複雑な人間が、互いに向かい合って何かを言い合ったり、何かを一緒にするとしたらどうでしょう?人は正直であれ、とは全くの正論です。もちろん私はそれを旨として生きています。それは正直に生きる事が良い事だからばかりではありません。正直に生きる事が一番得だからです。ここで言う「得」とは、お金が儲かるという事ばかりではありません。

何か嘘をつくとその嘘を隠すために、更に嘘をつかなければなりません。更にその嘘を隠すために嘘が必要となり、いずれ辻褄が合わなくなってきます。辻褄が合わなくならないためには、自分がついた嘘を全て正確に記憶しておかなければなりません。これは大変な苦労です。しかも普通の苦労と違うのは、元々しなくても良い苦労ですから、疲れ具合は一層です。

ところが人間は何せ天邪鬼ですから、なかにはこうした本来しなくて良い苦労をしたがる人もいます。そうした複雑な人がいるのです。私はそれ程複雑な人間ではありませんし、しなくて良い苦労はしたくありませんから一番得な生き方を選んでいるのです。しかし今言ったように、世には複雑な人がいものですからそうした人とも付き合わざるを得ない事があります。

しばらく前に『嘘をつく人間』とかいった題名の本が売れたそうですが、皆さん苦労しているのでしょう。嘘をついても自分で隠す必要のない偉い人と付き合わなくてはならない、可哀想な人たちが買ったのでしょう。

複雑な人間

辻褄を合わせるために嘘を重ねなければならないと言いましたが、辻褄を合わせる事に無頓着な人もいます。最後に触れた偉い人もそうですが、別の意味で偉い人というのが居るのです。この種の人は自分の言っている事の辻褄が合わない、すなわち矛盾してしまっても、意に介さない人です。これまた複雑な人達です。

昨日はコーヒーは苦くて不味いと言い、今日は香ばしくて美味しいと言うようなものです。しかし今のように言うと、それ程オカシク感じないかも知れません。誰だってその日の体調や気分によってコーヒーが美味しく感じられたり、不味く感じられたりするでしょうから。

昨日の私と今日の私のどちらも嘘はついていません。その時点では確かにそのように感じられたのですから。しかし同じ人が両立不可能な事を言ったのは間違いありません。ただし、時間の違いがここにはあります。ではこれは矛盾の例にはならないでしょうか?これが矛盾にならないならば、他のあらゆる意見表明が矛盾ではなくなってしまいます。そもそも矛盾というものはなくなってしまうでしょう。その時点で思った事、感じた事を言っても、それはその場限りの意見表明であって、それ以外の時点での両立不可能な意見表明とは関係のない、独立したものとなるでしょう。

この場合少なくともその当人にとっては、嘘というものもなくなってしまいます。もちろん同時点で両立不可能な意見表明(パラドックスと言います)というものもあります。パラドックスの話はまた別の機会にしましょう。ですからこの場合この人は他人から見ると、辻褄を合わせるのに無頓着なという意味で偉い人に見えるのです。何せこの人には「誤る」という事が理論上ないのですから。

何かを知らなくても知らないと言う必要すらありません。デタラメを言っておいて、後で答えが分かった時点で言い直せば良いのです。普通の人は、以前知らなくて「誤った」が今は正しい事を学んで訂正した、と言うでしょう。

しかしこの種の人には「誤る」という事がありませんから、学んだ私と学ぶ前の自分は何の関係もない独立したものなのです。ですから前言をヒルガエス必要などありません。ただ答えなんか前から知っていた、と言い放てば良いのです。このように嘘ばかりでなく、偉い人には何かを知らないとか誤るという事すらなくなって来るのです。いかにこの種の人達が偉い人であるか分かるでしょう。

ルールを変える

それ程偉くもなく、それ程無頓着でもないごく普通の人の場合はどうでしょうか?普通の人も嘘をつきます。その多くは言った当人ですら嘘と気付かない程の嘘だったりします。これは自己保身、つまり自分の身を守ろうとしてついてしまう嘘です。ではそうした嘘は仕方のないものでしょうか。仕方のないもの、誰でもするものならば、後ろめたさは最小で済みます。人の本当の偉さは、こうした誰でもつく嘘に気付いた時に表れるように思われます。

本当の偉い人というのは、こうした嘘であってもついた自分を責め、次はつかないようにと用心し、そして恐らくは次からはそうした嘘をつくことがなくならないにせよ、減るでしょう。対して世に言う偉い人というのは、自分を責める事も用心する事もしません。何のためらいもなく同じ過ちを平気で繰り返します。ですからこの点で偉くはないのです。

しかし世に言う偉い人というのは、ただで偉いと呼ばれているのではありません。自分は大いに反省しているとか、二度としませんと泣いてみせたりワメイテみせたり、パフォーマンスが上手です。ですから人から偉い人と思われ大きな顔をして堂々と闊歩しているのです。

更に抜け目ないことに、こうした偉い人は誰でもついてしまう嘘だから、その嘘をつくのは悪い事かもしれないが、決して責められる事ではないとしてしまったりします。これこそある意味完璧な自己保身です。自分に都合よくルールを変えてプレーをするスポーツマンのようなものです。

ここまで言うとこうした人がいかに偉くはないかが分かると思います。しかしこうした人達が暮らしているのがこの世の中だったりします。ルールを自分に都合良く変えてしまう人というのは、自己保身を最も上手くやってのけている人かも知れません。誰でもついてしまう嘘だけではなく、自分だけが犯してしまうルール違反もルールを変えれば何の問題もなく正当化出来ます。そうすれば誰に憚ることもなく堂々と生きて行けるでしょう。

卑近な例で考えれば、政治資金を届け出制にして、届けさえすれば合法で誰にも文句を言わせないとウソブク政治家の事が思い浮かびます。彼らなど最も上手く自己保身をやってのけている人かも知れません。

本編の哲学の窓の方でも少し書きましたが、魂とは非物質的なものの事です。物質は必ず崩壊しますが、非物質的なものは原理的に崩壊しません。しかしここで新たな問題が生じます。すなわち、非物質的なものが物質抜きで成立し得るかという問題です。前の問題設定の言い方をすれば、魂(実はこの定義によって答えも変わってくるのです)が永遠だとしても、物質のあり様抜きでそれが全く同じに再生し得るのかという問いです。いくら魂が非物質だから不滅だといっても、物質抜きで再生し得ないのであれば、すなわち一回限りのものであるのならば、肉体と共に滅んでしまうというのと少なくともある人々にとっては変わりありません。「この私」という唯一無二の存在は一回限りのものであって、個性も記憶も残らないのでは「魂は永遠」と言ったところで、それが肉体と共に滅びると言うのと何ら変わりがなくなります。なぜならある人々にとっては、魂が永遠で輪廻転生があるからこそ、この世で良き生を送らねばならないと考えられるのです。魂が永遠であって「生」が再生してもこの私と何の関係もない生が再生したのでは、この私には意味がありません。さてこの問題はどう考えたら良いでしょうか?

全てが永遠?

私の考えでは、「」と呼ばれるものは何も非物質的なものだけではないように思われます。その人の性格や立ち居振舞いを決定しているのは物質的な要素、すなわち身体の状態やあり方、現代風に言えば脳の働き具合や活発さ、身体の疲れやすさや健康の度合い等に大きく影響されるように思われます。そこまで含めて我々はギリシアの哲学者以来言われている「魂」というものを考えているのだと思います。魂をこのように考えると、「この私」は私の魂がこの肉体と共にあって初めて「唯一のこの姿」をしていると考えられるでしょう。魂と共にある肉体が変われば私も変わります。今の姿のまま「永遠不滅」だなんてのは古代人ですら受け入れない宗教的信念に過ぎません。

魂は不滅とし、輪廻転生を説いた事で有名なピタゴラスですら、良く読んでみると魂だけでは全く同じに生まれ変わるとは言っていません。生まれ変わると(したら、ですが)別の生き物(人間とは限らないのです!)になってしまうと彼でさえ言っています。その人がどんな人かというのは、何も魂だけに依存しているのではないのです。元ソクラテスの魂だって犬の肉体に入れば、犬になります。それは疑り深くて嫌らしい犬でしょうが、その程度です。決して、子犬に哲学を説く犬にはなりっこありません。

では肉体からの影響を受けない非物質的要素とは何でしょうか。それを古代人は知性と名付け魂の中の高級な部分と考えました。流派が違うとそれを「指導的部分」と呼んでいますが指しているのは同じものです。魂の他の部分がその時々の肉体によって影響され異なった現われをするのに対して、高級な部分である知性は全く影響を受けません。そうしたものこそ永遠で不滅と考えたのでした。しかしそこでは個による相違もなくなります。相違があるのは肉体による影響の結果だからです。そうした影響がないのならば相違もなくなるはずです。たとえ生まれ変わろうとも、知性だけは変わらず同じ姿を保ち続けることになります。知性は原理的に変わり様がないからです。もし何か我々の内に永遠不変のものを求めるとするなら、それを単に「魂」とするよりも古代人のように、その一部分と考えてみるのも良いかも知れません。

科学と物質

話をもう少し現代的に戻しましょう。現代では遺伝子の発見以来、生命あるものを形作っているのはDNAの塩基配列による情報であるとの考え方が有力です。ではこれまで考えてきた「魂」や「知性」といったものは空想に過ぎず、現代人ならDNAという「物質」こそが「その人をその人としている」源であると考えるべきなのでしょうか?非物質的なものが生命あるものを造っているなんて、古代人ならいざ知らず現代人が口にすべきではない、非科学的な空想に過ぎないのでしょうか?

科学的」という言葉は決して何でも解決してくれる万能の呪文ではありません。その事はマットウに科学をやっている人なら自覚している事です。科学は文字通り「科」に分けた「学問」です。つまり、自然なり人間の「総体(全体)」を我々に都合の良いように切り分けて、研究対象としている学問なのです。切り分けて退けた他人の担当分野には口出しせずに、ひたすら自分の得意分野に突き進む事に励む「学問」なのです。ですから例えば生物学では最終的には「生命とは何か」を解き明かそうとするのではありますが、当面はそこからずーと下った生命活動の過程を解明する事に邁進します。その際、生命の源は全て物質であるかどうかという根本的問いかけは「そうである」という仮定のままにしておきます。そうしないとそこに留まってしまい先へ進めないからです。これは一概に悪い事とは言えません。そのようにしてきたからこそ「科学」は進歩してきたのです。「哲学」の方では「進歩」というと拒否反応を示す人もいますが、「科学の進歩」は間違いなく進歩と言って良いでしょう。こうした事をマットウに科学をやっている人なら自覚しているものなのです。しかし時に人間は自分が何をやっているか分からなくなるものです。中には最初に仮定として脇に退けておいたものを解決済みと勘違いして「全ては解き明かされた」と楽観的に、軽々しく言い放つオッチョコチョイな人もいます。あるいはその事も知っていてわざとそう言い放つもっと悪質な人さえいます。しかしそんな人に惑わされる必要はありません。本物の科学者なら慎重に「今までの所」と付け加えるのを忘れないからです。

さてDNAという「物質」が「その人をその人としている」源であると考える立場があるのは否定しません。しかし「その人をその人としている」事の中には何が含まれるでしょうか。ここから考えてみましょう。外的なその人の行動自体や行動のパターンとしてそれらを捕らえるのは、余りに科学に毒された思考法ではないでしょうか。そこには「」という視点が欠けているように思われます。大食漢でブクブク太っているのは遺伝かも知れません。あるいは遺伝ではないとしても「大喰らい」である、または「大喰らい」になったのは遺伝子の指令によるのかも知れません。この点は科学によって「環境」との関連を含めて説明出来るでしょう。しかし「大喰らい」をしている「」が「」であって「あなた」ではないと自覚する時、その「」の中身は何なのでしょうか?脳細胞相互を結ぶシナプスのパターンと科学者は言うでしょう。シナプスは物質ですが、パターンは物質でしょうか。物質相互の関係の方が正確でしょう。とは「関係」であって物質ではないと言えば科学者も同意するでしょうか。そうした意味での非物質を我々は知性、あるいは魂と呼んでいたのでしょうか。シナプスの伸び方、結び付き方に何が作用しているのかは科学的に究明されるべきものでしょう。しかし結び付きそれ自体が非物質である点は少なくとも彼らも認める事になるのではないでしょうか。

結論を急ぐ事はありません。何せ哲学には時間がたっぷりあるのですから。関係と言っても、それは物質があって初めて生じるものです。という事は物質がなければ関係も生じません。やはり物質が始まりであって非物質はそれに付随して生じるものに過ぎないのでしょうか。「」を持ち出す議論は「(自己)意識」の問題と言い換えられるのですが、こうした反論を持つ事になります。「(自己)意識」の唯一性は論じられても、その物質依存性までは否定出来ないようにも思われるのです。

これ対しては次のような反論が考えられます。物質と呼ぶもの(ここではDNAです)は自らが作り出すと考えられている関係に従って生命体を構成しているのです。すると単なる物質ではない生命体は、物質ではないこの関係によって生命体になったのですから、物質を生命の源と呼ぶのは正確ではないと。この関係は生命体の設計図とかいった俗な呼び方で指される事がありますが、正に設計図と材料の関係で今の事態を考えてみてはどうでしょうか。家は(多くの日本の家の場合)木材から出来ています。しかし材木を集めただけでは家は出来ません。大工と設計図(それが大工の頭の中にあるとしても)がなければ、それらの材木は木の塊に過ぎません。生命体を作っているのが蛋白質だとしても、それだけでは物質でしかありません。肉槐と生命体の違いを複雑さの違いだけに帰する事は出来ません。程度の差ではなく、レベルの差を想定してしまうのは空想的過ぎるでしょうか?

安楽死

歴史的に見ても進んだ国オランダから、安楽死を合法化したとのニュースが20世紀の末に飛び込んできた。歴史的に見て進んでいるというのは、鎖国していた日本と限定されていたとはいえ交易を許される位進んでいたという意味である。キリスト教国でありながらキリシタン禁令を国是とする江戸時代の日本から交易を許されたというのは、キリスト教より商売を優先させた結果に他ならない。これを馬鹿にする事は出来ない。何せ現在の世界ではほとんどの国は、宗教が異なるからといって商売をしない事はないのであるから。しかし例外もある。ユダヤ教国すなわちイスラエルと頻繁に商売をしている企業とは取引をしたがらないイスラム教国があるからだ。

また進んだ国オランダでは、いわゆる麻薬も一部合法化されているそうだ。そうした国で安楽死が合法化されたという。このニュースは死に関するさまざまな議論が尽くされていない国では出来ないだろうという意味で、驚くべきものであった。まず事柄を整理してみよう。安楽死とは、病気などによる激しい苦痛に耐えられなくなった人が苦痛を避ける事を生き続ける事より優先し、自ら死を選ぶ「死に方」である。自ら死を選択するという点で尊厳死と似ている。尊厳死の方は単に苦痛の回避だけではなく、人工的な装置による治療という名の延命行為を拒否するものと定義してみよう。安楽死は本人の苦しむ姿を見かねた家族などの周囲の者が、医師に頼んで薬を投与させ患者を死に至らせるものと一応定義しておこう。尊厳死の方は本人が家族などに前もって意志を伝えておく事によって、人工的装置による延命行為を拒否するという事によって本人の「尊厳」を保った「死に方」を実現するものだろう。尊厳死は事前の意向表明によって実現可能にも思えるが、現場の医師に判断が委ねられるケースもあると聞く。医学の進歩により、単に命を保つだけなら相当の事が出来るようになっている。しかしこれ以上治療を続けても回復の見込みがないと担当医が判断した時点で、治療は打ち切られ、最悪の場合には生命維持装置まで外されて死んでしまう、という死に方を将来私はするかも知れない。これでは尊厳死どころか私の尊厳はないに等しいではないか。

自由と教育

現代は自由が最も重んじられ時代でもある。自分のする事に他人は口出しして欲しくない、という意味での自由尊重である。行動の自由はそのうちの一つだが、当人同士が納得しその他の人に一切迷惑を掛けないのなら何をしても良いじゃないかという事にもなる。これらからは「自己責任」「自己決定権」もう少し哲学的な言葉を使えば「自律」といった概念が浮かんでくる。自分の事は自分で決める事は、自由という名前で力を振るっているのである。生きたいように生きるのだから、死にたいように死ぬというのが含まれないはずはない。こうなると自殺する自由というのも問題になってくる。自分がどのように生きてゆくのか、それがどんなに不様で粗雑であっても、一人前の大人に対して注文を付けるのは今日では困難である。かつては大人に対しても指導・強制という嫌な形でモラルの押付があった。しかしそれが大ぴらに出来るのは未成年に対してだけである。しかしこうした自律という意味での自由には、前提があるように思われる。すなわち、成長過程での教育である。教育によって何が目指されるべき生き方なのか、無様な生活とは何かという規範が教えられる。そうした規範を身に付けると、身に付けた当人にとっては、自分だけでなく不様な生き方をしている他人の有様を目にすることさえ不快となる。こうなると規範に反した自由な生活は「他人に迷惑を掛けない」という条件を満たす事が困難になってくる。さまざまな意味での社会の中に暮らす我々は、自由に生きるに当たってその生き様自体が他人に影響を与える。従って不様な生き様はそれを他人にさらすだけでもって「迷惑」になり得るのである。

そこで教育の必要性が必須となるが、この条件が崩壊した社会では、自由イコール他人の迷惑の上に成り立つもの、というおかしな状況になってくる。本来、他人に迷惑を掛けないのが自由であったのに、こうした前提で自由を論じなければならないのであるから問題が厄介になるのだ。

死ぬ自由

では死に方の自由はどうであろうか。私がどのように死のうと、他人に何の関係もないのであろうか。宗教では我々を作った神を無視して勝手に自殺するのは禁じられる。キリスト教以前の古代ギリシアでも同様の理由から自殺を否定する見解が見られる。対して古代のストア派の哲学者達は自殺を認めていた。彼らの哲学では自らの意思で身体を完全に支配した上での自殺は賞賛さえされたようだ。近代以降では神に代わって国家が自殺を禁じている。具体的には自殺したい人に毒薬を渡したり、崖で背中を押してやるのは自殺幇助罪というのになるらしい。あるいは自殺願望のある人に方法を伝授したり、道具をそろえてやるのは幇助や嘱託殺人等というのに当たるのだろうか。生き方には口を出さない国家も、死に方には口を挟まずにはいられないようだ。その際問題となるのは、他人へ害を与えないという原則というより、神に代わって国家が国民を庇護する義務のように思われる。国民がドンドン自殺しまっては、税収が減ってしまうとかいった理由だけでは説明出来ないからだ。

また延命治療を拒否しようという場合、患者本人が自らの意思を既に表明出来ない状況に至っている点も考えてみなければならないであろう。臓器移植で行われているドナーカードのように、健常な時に自らの意思をはっきりと書き残し、周囲の人にも認めておいてもらわねばならないだろう。しかしこの場合でも親族や医師が強硬に反対すれば安楽死や尊厳死を執行出来るかどうかは不確定である。こうなると法律による明文化が必要であろう。その際は尊厳死と安楽死を分けて、先ずは延命治療の拒否という尊厳死が認められねばならないであろう。それが定着したならばその後に、積極的な致死行為を合法化する安楽死の問題を論議しなければならない。しかし既述のように現代の高度な治療は物理的のみならず情報の面でも密室で行われている。現場の医師の信念に基づく文字通りの「匙加減」が、患者自身の意思の尊重を踏みにじる事を恐れる。

ソクラテスは嫌な奴?

人間関係は難しいと最初に書きましたが、誰しも自分と合わない人というものがあるものです。ではもしその人が有益な議論をしていた場合にはどうでしょうか。嫌な奴だからといって無視しましょうか。それでは世界を狭めるだけです。

古代ギリシアにソクラテスという嫌な奴がいました。相手が曖昧にしている事を感づくと、ソクラテス自身が良く分かっていない事であっても、しつこくしつこく相手に質問します。というよりソクラテスが知らないからこそ知っていそうな、あるいは知っていると言っている人に質問したのです。当然相手は嫌がります。何せその問題に触れられなければ、当人はいっぱしの大人として周りから尊敬もされたでしょうし自分でも良い気分でいられたからです。ところがソクラテスに尋ねられたばっかりに、自分が周囲から集めていた尊敬も、自分が持っていた安堵感も消し去られ、不安の中に放り込まれます。これは嫌なものです。

ソクラテスに対する反応は2つに分かれました。自分が好い気になっていたのを、諌め惰眠から目覚めさせてくれた恩人と慕い、自分自身であれ、他の誰かであれ、ソクラテスから質問される事を見聞きしたがる人々です。彼らの関心は知らない事を知りたいという一心でした。確かに安堵を破られる事は不愉快です。しかし何かを知らないままに安堵しているよりも、不安になっても知ろうと努める道を選んだのがこの人達です。そうした人達は今でも昔でも少数派でしょう。世の多くの人々はそんなソクラテスを不愉快でしつこい嫌な奴と感じました。中には怒って彼を訴える人まで出てきました。ご存知でしょう、彼ソクラテスは訴えられて死刑になったのです。詳細はここでは書きませんが、『ソクラテスの弁明』という本が文庫で何種類か手に入るので読んでみて下さい。初めて読むと何故彼が裁判にかけられ死刑になったか分かると思います。そう感じない人は初めから哲学者を気取っている人かも知れません。ソクラテスほど皆が嫌がることを平気でし続ければ、政治家に目を付けられもするでしょうし、訴えられもするでしょう。

そこまで行かずとも、そしてソクラテスほど真理を目指していなくとも嫌な奴は一杯います。そしてそれはソクラテスよりもっと厄介な人達です。何せソクラテスと違って真理を目指してもいないのですから。嫌な奴でもソクラテスは少なくとも何かを気付かせてはくれました。その一点だけで、彼が不男で一緒にいて顔を眺めていてもそれだけでは決して良い気分になれなかったのに彼の周りには人が集まってきたのです。しかし一般に(全ての)嫌われ者が哲学者だという訳ではありません。嫌われ者の中にも哲学者もいれば哲学者ではない人もいるでしょう。当たり前の事です。この単純な事を勘違いして、無作法な振る舞いをわざとしたり汚い格好をしたり、俗世間の事柄を軽んじると称して時間や約束を守らず周りの人に迷惑ばかりかけておきながら無頓着な事をするのは、今流に言えば「格好から入る」軽薄な人に過ぎませんから決して真似をしないように。


以後少しづつ書き足してゆきます




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© SAITO Toshiyuki