西洋思想の源流から見る応用倫理学 3

生きているとは

我々は、生きているという事をどのように定義したらよいのであろうか。まずここでは古代ギリシア哲学における議論を紹介してゆきます。

しかしそれを簡単に定義する事は容易ではありません。「倫理学A」で話した通り、ソクラテス以前の哲学者たちの著作はほとんど失われていて、彼らが「生きている」源・根拠と考えた「魂」=psychêを誰が最初に使ったかを確定する事は、ほとんど不可能と思われます。

次節に挙げたzôêは、opp. death=「死」を反対概念として持っていました。しかしpsychêの反対は物質や物体です。純粋に思想史上の議論をするのであれば、psychê概念の検討を行うのが筋ですが、ここでは主としてbiosについて考えてゆきます。

Biou êtikê

古典ギリシア語のBiosの意味から「生命倫理学」を検討する

LSJの定義 I
life, i.e.not animal life (zôê), but mode of life, manner of living; but also of animals; also zên phytou bion (Arist.GA736b13)
生命、暮らしぶり、暮らし方、動物の生、植物の生
定義 II
livelihood, means of living, property
暮らし、生計(生きてゆくてだて)、財産
定義 III
the world we live in, 'the world'
我々の暮らす世界
cf. zôê
1. living, i.e. one's substance, property,
財産、所有物
2. after Hom., life, existence, opp. death
生命一般
3. way of life
生き方、暮らしぶり
< Platonism >
bios, zôê
基本的には区別なし(bios=生活、zôê=生命)

Biosはもちろん「生命」という訳語が最も相応しい場面が多いギリシア語ですが、上記のようにそれ以上に広義の語です。どのように生を送ってゆくかという「暮らし方」や、動物だけではなく植物の生も含まれます(I)。また生きてゆくための「てだて」としての財産や仕事、収入源などをも意味します(II)。ここから我々の暮らす世界そのものをまで含める事もあります(III)。

ですからこのように考えると、「生命」というのは狭義のBiosであって、「生活」としてBiosを考えるとより相応しい場面が多くありそうです。

ギリシア語には別にzôêという語もあります。こちらは狭義のBiosに近いかも知れません。

「生活」の考察

前節で見たところからすると、biosは「生命」と訳して考えるよりも「生活」や「生涯」という日本語で考えた方が適しているように思われます。

どちらの「語」を使おうとどんな違いがあるのか、という疑問が聞こえてきそうです。しかしその語で指し示す事態には差異がありそうです。

「生命」は生きていると言われるものが持っている、在り方と構え、もしくは構造(と呼んでも良いでしょう)を指している、と言えば良いでしょう。「生命」は生まれて死ぬまでの間に、成長し変化してゆくという在り方をする。そして成長・変化するとは、ギリシア人が言うように「自ら動く」ことによって成し遂げられます。

** 「自ら動く」こととpsychê

そうした生命を持つものが「生活」を営むのです。しかしここであらゆる生きているものが、生活を営むものではない事に直ちに気付きます。「生きている」事が出来なければ「生活する」事は出来ませんが、その逆は可能だと言いたいのです。「生活」には「自ら動く」事の他に、その中で生きる環境や「世界」との相互関係がなければならないからです。ここで考えている環境や世界とは、「社会」や国家といったものを超えた、文字通りの世界との関わりを考えています。

我々人間が生きて行くには、いのちを維持してゆくために食物を手に入れ、さらにはそのために他人との「共同」が必要となります。ここから社会が形成されると考えられます。その際に人間は他の動物と異なり、生きるための食物摂取の営みとしての「生活」を格段に広範囲でかつ猛烈な勢いで行うのです。

その事から他の生物種を絶滅に追いやり、また一方で遺伝子操作によって新たな生物を誕生させています(遺伝子操作を行う以前から、「品種改良」によって人間に都合の良い動植物を既に我々は作り出してきています)。更には環境の変化をさえ引き起こしてしまう事はご存知の通りです。この点は別に後ほど取り上げます。

「意識」の継続

前回挙げた生きている事のもう一つの指標は「意識」の継続でした。「意識」も哲学・思想史の中で大きな位置を占める大問題です。ここでは古代において、すなわち最も早くこの問題を考察した、プロティノスにおける「自己感覚」について教室で取り上げます。synaisthêsis autês , parakolouthêsis autês、すなわち「自己自身を共に感覚する」、「自己自身に従う」という表現を彼は用います。

プロティノスからの引用

I.4.[46]10.23-28(『幸福について』)
我々が行為する時に我々はそうした状態にあると意識してはいないのである。すなわち本を読んでいる者は、本を読んでいる事を必ずしも意識してはいないのであり、とりわけ熱心に本を読んでいる時にはそうなのである。また勇敢な者は、勇敢であるとか勇敢に活動しているという事を意識もしていないのである。こうした事は他にも無数にある。(拙訳

心はどこにある(付論)

NEWCASTLE UPON TYNE,England(AP)

イギリスである少女が、心臓を他人の物に取り替えてまで生きたくないと訴えて移植による治療を拒否したのに対して、裁判所が医師に手術を許可したとの報道があった(1)。十五歳の少女にどこまで本人の意思を認めるかといった問題が法解釈上持ち上がるがゆえに報道されたのであろうが、我々が注目するのは心臓が個人のアイデンティティーに占める位置である。今日では脳が人のアイデンティティーを左右すると一般に考えられており、故に他の臓器移植が行われようとも当人が別人になると我々は考えないのである。

(1)毎日新聞、産経新聞、日本経済新聞など(1999年7月16日付夕刊)に拠ると事情は以下の通りである(英文による補足はTHE JAPAN TIMES,JULY 17 による)。15歳の少女M(Child M) は今年5月に突然心臓疾患があらわれ、ニューカッスルのフリーマン病院で移植以外に助かる道はないと診断された。医師らの説得にもかかわらず彼女は移植手術を拒否し続けたため、同病院は高等法院(High Court)に手術の許可を求める訴えを行った。担当のジョンソン裁判官は弁護士を病院に派遣、少女の考えを聞いた。少女は「他人の心臓をもらえば、私は私でなくなる。死にたくはないけど、他人の心臓をもらうくらいなら15歳の自分の心臓で死にたい(If I had someone else's heart,I would be different from anybody else.Being dead would not make me different from anyone else....I don't want to die,but I would rather die than have the transplant and have someone else's heart.I would rather die with 15 years of my own heart.) 」と訴えた。しかし高等法院は少女の訴えを棄却し、移植を許可する決定を行った。

これが今日の事情であり、医学の発達により脳こそが身体をコントロールしている事態を我々が知るゆえに上記の判断が一般になされるのである。しかし依然日常生活においては「体で覚える」とか「頭で分かっていても、体がいうことを聞かない」などという発言がなされるのも事実である。

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©SAITO Toshiyuki