前回の講義中のアンケートの一部を紹介します。
臓器移植に関する資料リンク(初回に紹介済み)
参考図書にも紹介した加藤尚武さんによる『応用倫理学のすすめ』(丸善ライブラリー)によると、「他人に迷惑をかけない限り何をしてもいい権利」として示される「自己決定権」や、「他者危害排除の原則」「愚行権」が臓器移植においてもキーワードとして大きな役割を果たしているように思われます。
以下の各権利の元となっている考え方で、他人に迷惑をかけない限り、何をしても良い権利、と定義できます。
政府が個人の生活に干渉できるのは、個人の行為が他の個人に危害を与える限りにおいてである、という原則です。酒、タバコ、危険なスポーツなど当人にとって害となると思われるものでも、大人が自分勝手なことをするのを放って置くという考え方で、自由主義の基本をなしている考え方です。
癌を引き起こすと「言われている」タバコを、当人が好んで吸っているのに、政府が禁煙するように強制は出来ないという事です。強制できるのは、その行い(行為)が他人の不利益につながる場合と、当人が十分な判断が出来ないと想定される、未成年についてだけです。未成年の禁煙に関して言えば、成長過程にある未成年の喫煙が、医学的に極めて有害であるという理由によって、喫煙を禁止すると考えるのは納得が行きません。大人であっても、肺癌を始め内臓疾患が発生する割合が喫煙によって、増大する事は事実だからです。しかし「大人」に対して、喫煙を禁止する法律が「嫌煙大国アメリカ合衆国」においてさえ成立するためには、今示した「他者危害排除の原則」に反しない限り不可能です。
公共の場での喫煙は悪名高き「副流煙」によって、この原則に引っかかりますが、個人的に自室で喫煙する事を禁じる事は法律には出来ません。しかし愛煙家を脅かす原則というものがもう一つあります。喫煙を「公共の健康への脅威」としてとらえる事によって禁じようとする動きです。喫煙者が存在するために肺癌、心臓疾患その他の病気で亡くなる人、治療を必要とする人が増加します。その費用の社会全体による負担という視点を持ち出すと、喫煙が有害かどうか自体は問題ではなく、社会にとっての「保険料負担の増加」という観点から「他者危害排除の原則」に抵触すると主張する事ができるようにも思えます。
その他、教室ではいくつかの例を示します。
「大人」が自分にとって不利益になる事を承知の上で、その行為をなす事が許されるという考え方です。あるいは「たとえ当人にとって理性的に見て不利益になるようなことでも、他人に危害を与えない限り、自己決定権を認めなければならない」と定義できるのかも知れません。
キリスト教の一宗派である「エホバの証人」の信者による輸血の拒否事件を考えてみましょう。さらに患者が未成年の場合であって、病院に信者が押しかけてきて保護者と共に輸血拒否を訴えた例がありました。その結果、その子供は死亡しました。これが大人の場合でしたら「愚行権」という基準を認める事によって解決できます。
人工妊娠中絶を行わないと母体に危険が及ぶといった場合でも、当人が中絶手術を拒否する事が考えられます。
喫煙に関して未成年が規制される理由として、未成年には愚行権がないという見方が考えられます。個人の価値観は多様であって、他人の価値観を尊重しなければなりません。たとえば、私から見て嫌悪しか感じられない音楽であっても、当人が気に入って聞いて楽しむのは自由です。
しかし日本では芸術は自由だが単なる卑猥なモノは法の規制対象となります。しかしそれを有害であると知りながらも大人が「自分の好みで」聞いたり見たりするのを止める事は出来ないというのが自由主義の考え方です。
しかし判断が十分に出来ない「とされる」未成年が、同じ事をしようとする場合には規制する事ができると考えるのです。喫煙の「有害さ」を知った上で愚行権を行使する大人と、知らずに「有害さ」を被ってしまう未成年を区別するのです。この件に関しては、未成年による「自己意思の表明」が可能か、という問題が派生してきます。臓器移植の際に大人は自らの意思によって自分の臓器を提供するかしないかを決定できるとされています。しかし未成年の場合には疑念が生じる、という点です。ここは各自で考え方が分かれる点でしょう。
また上記の「エホバの証人」の信者による輸血の拒否で亡くなった少年の場合はどうでしょうか。この例で子供は「死にたくはない」と言っていたそうだが、「死にたくはないが、輸血は受けたくない」と言っていたのか、「死にたくはない」とだけ主張していて「輸血を拒否してはいない」かは不明であったようです。しかし保護者や押しかけた信者によって、病院は輸血を行いませんでした。この事例を考えてみて下さい。一般に保護者が当人(未成年者)の利益を十分に代弁していないと考えられる場合には保護者の親権は剥奪され、未成年者を保護施設に移したり、第三者が親権を代行する事が考えられます。
我が国では臓器移植に限って脳死を人の死と定めています。すなわち臓器移植を行わない場合には、従来通りの基準によって人の死が判定されるのです。この点は最初に留意しておくべきでしょう。すなわち我が国ではドナーカードの有無によって自分の生き死にの判定基準を自分で事前に選択できるのです。
脳死についての定義の根拠となっている、ハーバード大学医学部の特別委員会報告によると、「いつまで続くか分からない昏睡という苦痛から、患者、親族、医学資源を救う事」および「移植のための臓器の入手についての論争を終わらせる事」が脳死を人と考える理由として挙げられている。
ここで第一の理由は本来的なものではなく、第二の理由が主たる理由であることは明らかである。この特別委員会の委員長であったヘンリー・K・ビーチャー博士は次のように述べている。
「臓器の移植に関する法律施行規則」(H.9.10.8)によると、「脳の器質的な障害及び自発呼吸を消失した状態と認められ、かつ、器質的脳障害の原因となる疾患が確実に診断されていて、原疾患に対して行い得るすべての適切な治療を行った場合であっても回復の可能性がないと認められる者」に対して、いわゆる脳死判定が行われるとされています。
簡単に言えば、その状態に至ったならば、回復する見込みがない事を「不可逆的停止」と定義し、それをもって人体を死体と見なして良いと考えるという事のようです。それ以前に臓器を取り出すと、それは生体実験と見なされるので、これを避けるために法律で死の定義をしようという訳です。
どうやら医者は当初、「脳死」状態になると数日で従来の定義による「死」を迎えると考えていた節がありますが、現実には数週間、数ヶ月、場合によっては10年以上もの長きに渡って生存した例が報告されています。
また、脳死となった(死体ではなく)「患者」が自発的に四肢を動かすという「ラザロ徴候」(ラザロとは新約聖書でイエスによって死から蘇らされた人物)が、脳死判定を終えて人工呼吸器を取り外した後に観察されています。
ハンス・ヨナスは『死の定義と再定義』(Hans Jonas, "Against the Stream : Comments on the Definition and Redefinition of Death" in his Philosophical Essays. 1980)の中で、次のように語っています。
「我々は生と死の境界線を明確には知ってはいない。そして定義が知識の代役を果たす事は出来ない。人工的に支えられた昏睡している患者の状態は、たとえ減退したものではあるとしても、まだ生の一つの状態であろう」
「細かい点が分からず疑いが残っているこの状態において、我々が採用すべき方針は、生きている可能性の側にできるだけ加担することである。」
「侵害となる行為は、生体解剖と同様のものと見なされるべきであり、こうした行為は、そのようなどちらともいえない境界線的な状態にある人に対して、どのような理由があれ決してなされてはならない。そして、どう見ても曖昧でしかないことを、はっきりしている事だと決め付けて、そうした行為を許可するような定義は、拒否されねばならない」
「昏睡状態の人の肉体は、それがまだ(たとえ人工的な補助によってではあっても)呼吸や脈拍などの働きをしている限りは、なお、かつて愛したり愛されたりした主体の残存的継続であると見なされねばならない」