安楽死(euthanasia, eu=well, thanasia=to die)とは、痛みに苦しむ末期の患者に、医師が薬物などを投与して死なせる事です。もう少し詳しく分類すると、徒に無意味な治療を継続しないと考えて、治療を中止する「消極的安楽死」と、薬物を投与する「積極的安楽死」とに分けられます。モルヒネ投与など苦痛の除去と緩和措置を治療自体よりも優先する事も、「消極的安楽死」に含まれると考えられています。
「消極的安楽死」を尊厳死と考える見方もあります。また「積極的安楽死」は倫理的だけではなく、法律上も問題になり得ます。また苦痛を和らげる以外の薬物、すなわち毒物等の投与や、医師以外の者による薬物の投与は犯罪とされます。
『積極的安楽死と消極的安楽死』ジェイムズ・レイチェル(和訳=『バイオエシックスの基礎』pp.113-121)「非常に多くの人々が積極的安楽死と消極的安楽死に、重要な道徳上の違いがあると考えている1つの理由は、殺すということが死ぬにまかせるということよりも、道徳的にはもっと悪いことであると考えているからである」二つの事例については講義中に紹介
両方の安楽死に関する議論を参照
治療の中止による死も、薬物の投与による死も、本人の意思確認、家族の了承、回復の可能性の追求(理論的に不可能である)等の要件を満たしていないと、殺人行為となる恐れがある。しかもそれは単なる殺人に留まらない。
『レイチェルの安楽死論に応えて』トム・L・ビーチャム(和訳=『バイオエシックスの基礎』pp.122-134)講義中に紹介、の論を参照
一方尊厳死(death with dignity)は末期癌等の患者が自発的に延命処置を拒否して、自然のままに死ぬ事とされています。人間は死に際しても、最後まで人間として扱われ、人間として死んでゆく、というもの。すると全ての死は尊厳死でなければならない事になる。
前者では医師が患者の「ためを思って」、後者では患者が自らの「ためを思って」、精神的・肉体的苦痛よりも死を選ぶ事になるのでしょうか。その際にも「患者本人の嘱託又は承諾」が必要であり、「自己決定権」が尊重されます。したがって、安楽死をさせようと医師が患者の意思確認を怠って、患者の「ためを思って」薬物を投与すると、日本や西洋(の多く)では、自殺幇助として罰せられます。
安楽死と尊厳死に関する資料リンク(内容を講義において紹介します)
「不治の病で耐えられない苦痛がある患者が自発的意思で希望した場合、安楽死の措置をした医師の刑事責任を問わないという内容。他に、(1)患者への情報提供(2)代替手段がないこと(3)第三者の医師との相談などが義務付けられている。非在住者の安楽死には適用されない」「患者は、こん睡状態などの事態に備え、事前に安楽死希望の書類を記しておくこともできる。安楽死が認められる患者は12歳以上で、16歳未満の場合は親権者の同意が必要とされる」
自分に関する事を自分で決めるという事、自己決定権、さらには愚行権を認めるとするならば、自分が死ぬ事も認める事になるのでしょうか。あるいは不治の病にかかった患者が安らかに死ぬ権利=安楽死をする権利は認められるのでしょうか。前者については一般に認められてはいないにもかかわらず、厚生労働省の統計によると、毎年我が国では3万人以上の人が自殺によって亡くなっています。
あるいは自殺は認められないのに、安楽死は容認されるという観点もあります。
先ず始めに自殺を禁止する論理について概観します。そもそも自殺を希望する当人にとっては、生きる事よりも死ぬ事の方が何らかの観点でプラスであると思われているのでしょうか。ここで分けて考えなければならないのは、生に絶望して死の方が利益があると考えての自殺と、死の方が利益があるとは考えないが、かといって生きてはいられないと考えての自殺です。後者は愚行権によって正当化されるでしょうか。生に絶望した人が、ヘビースモーカーになって、癌で死ぬ事を願うとしたらどうでしょうか。
生きるとか死ぬといった極めて個人的な事柄であっても、これほど多くの人が亡くなってゆくのを社会は見過ごす事は出来ません。そこで社会は自殺する事を、宗教の倫理や道徳によって禁止します。
前回の話でも出てきましたが、未成年者に対して保護者が未成年者にとっての最善を考慮していない、適切な対応を取っていないと国家によって判断されると、国家が保護者の役割を取って代わります。
この考え方が自殺に関しては成人に対して当てはめられます。かつて西洋では自殺それ自体が犯罪として禁じられたいました。現在は自殺は犯罪ではありませんが、自殺幇助(ほうじょ)、妨害排除、助言、調達は犯罪とされています。
思想史的には自殺を賞賛したストアの倫理が有名です。しかしストアでも凡人の自殺は勧められるものではありませんでした。知を獲得した賢者(知者)だけが、身体をも完全にコントロールした上で生よりも死を選び得るとされていたに過ぎません。しかしその後のキリスト教倫理の中で、自殺が禁止されました。神の許しを得ずして勝手に死に行く事は、ギリシアで自殺が禁じられるのと同じ理由です。
もし「他人を殺してはならない」というのを認める事が出来るなら、「自分を」殺す事をしてはならない、を認める事になるでしょうか。少なくとも、宗教道徳で自殺を禁じているのは、AさんがBさんを殺してはならないのであるから、AさんはAさんも殺してはならない、という論理が働いているように思えます。
しかしここで殺されるAさんは、殺すAさんと同一人物ですから、殺されるAさんは殺される事に同意している事になります。その場合に殺すAさんには、殺人が認められるのでしょうか。このように言い換えて考えた場合、答えはどのようになるでしょうか。