西洋思想の源流から見る応用倫理学 6
死の定義
生命倫理学の諸説紹介
前回に引き続き、死の定義に関わる諸説を教室で紹介いたします。
- 「脳死と人格同一性」マイケル・B・グリーン、ダニエル・ウィクラー
- 生物学的諸議論
- 道徳的諸議論
- 存在論的議論
- 脳死としての死
- 「死の定義」ロバート・M・ヴィーチ
- 魂の不可逆的な喪失
- 身体的統合の不可逆的な喪失
- 意識、あるいは特殊な相互作用の能力の不可逆的な喪失
要約1「脳死と人格同一性」(一部紹介)
死の定義を巡る混乱
従来の医学的慣習の下では生きていると見なされたであろう患者が、死んでいると宣告される。脳機能の不可逆的喪失。脳死患者を死者と分類しようとする議論。
I.生物学的諸議論-生命医学の進歩によって死の再定義が必要になった。
- 昏睡-意識と外界認識の永遠の喪失
- 生命体内部の恒常性維持に寄与する自律的身体過程(たとえば呼吸)を統制する脳の能力の喪失
- 上記二者は、脳の異なる部位にもとづく。上部脳(意識をつかさどる)と下部脳(呼吸などの生命過程をつかさどる)。
- 伝統的心肺検査は脳死検査でもあったとする見解。 - 生命維持装置による偽りの検査事実。 - 脳機能の直接の検査 - 脳波や類似の指標によって下部脳の機能停止を読み取る。その難点 - 下部脳だけに宿るのではない能力。 - 能力の喪失それ自体を指標とする事の難点(ペースメーカーや人工呼吸器使用者)。
- 脳死が起こると程なく全体としての生命組織の死がそれに引き続くという医学的事実。生命機能の一つを喪失した場合に、必然的に死が引き起こされるとしても、その喪失そのものが死を構成するのではない、という指摘。程なくという時間の短さ - 無限に引き伸ばし得る。腎臓障害の例を考えてみよ。
- その他、脳の重要性・特殊性を訴える科学者。しかし下部脳の機能は他の身体機能部位と同様に代替可能(技術上の問題だけ)。
II.道徳的諸議論-不可逆的昏睡者を際限なく無意味に維持しておく事の道徳的問題への解決として。
- 人間の死とは、社会的および道徳的概念であって決して生物学的概念ではない、とする立場。喪に服する事、生命維持装置を外す事、生きている臓器を移植用に除去する事を「死への振る舞い」は含むとする。
- 価値がないと考えるものを死んでいると見なすのか?
- 道徳的諸議論からなされる死の定義は間違っている。死の宣告という言語行為の解釈の仕方。
- 死の宣告>異なる行為を行い、他人へ同様に振舞う事を期待する>しかしここから>死の宣告をする事は、異なる行為を行い、他人へ同様に振舞う事を要求するという意図を述べる事であるという帰結は出てこない。
- 語られる事、語る事による効果、語る事の動機。
- 死を定義する事と、いつ生命維持装置を除去するのが最善かを決定するのは全く別。
- いくつかの前提。死者に医療を施す事は無意味。生命は常に維持されるべき。生きている者を見捨てるのはいけない。
III.存在論的議論 - 脳死を人の死と見なすために有効な論拠となる。
- 患者斉藤が生きていると述べる事は、患者が生きているという主張と共に、その患者が斉藤であるという主張でもある。
- 斉藤の死は、その患者が今まで斉藤であったとしても彼が死んでしまう時か、その患者が斉藤である事を止めた時であるかのどちらか。脳死の時に斉藤である事を止めるとすれば、斉藤の脳死が斉藤の死となる。心的活動能力の喪失が死を構成。存在論的理由。
- 人格同一性の基準。(1)人格性や記憶、その他の心的諸現象における継続性と関連性。(2)物理的身体の空間時間的継続性。
- 脳の同一性だけでは不十分。脳における活動過程の継続性が必要。
- 脳死の身体では、以前それ以前に結びついていた人格の同一性も同じく奪われてしまう。脳が死ねばそこには最早、人格は残らない。
- 上部脳の機能の不可逆的停止がその人格の死を構成する。
カントの自殺禁止論
前回採り上げた自殺に関する問題を本格的に論じているカントの議論を、彼の『道徳哲学』[Metaphysik der Sitten. Metaphysische Anfangsgruende der Tugendlehre, Immanuel Kant (1797)]に則して紹介します。
自殺は犯罪である
自殺は自分に課せられた義務に背く事であると観られる。しかし人間が自分自身を辱め得るという事は理にそぐわないと思われる(なぜなら自ら欲して不正をなすものはないから)。
ストア派は、生きていても何の役にも立たない場合には、目の前の悪に煩わされることがななるために、安らかな魂を得て、喜んでこの世から立ち去ってゆく事を、賢者の優れた人格の一つと考えた。しかしそうした死を恐れない勇気と、自己の生命よりも更に価値のあるものを知る心の強さがあったならば、その強さによって、その強さを備えたような素晴らしい自己を、自ら破壊することなく、すなわち自ら生命を奪うような事をさせないようにさせなければならなかったであろう。
人間は義務について語り、生きている限り、人格を捨ててしまう事は出来ないのである。そしてあらゆる責任から逃れる権限を持っていると考えるのは矛盾である。自己自身の人格の内なる道徳性の主体を絶滅する事は、道徳性そのものの存在をこの世からなくしてしまうのである。
道徳性そのものが目的それ自体なのであるから、自分にとっての何らかの目的のために、その単なる手段として自己を扱う事は、自己の人格の内なる人間性の品位を奪う事である。人間は自らの人間性を保存するように委ねられているのである。
部分的自殺
他人に移植するために歯を抜くとか、良い声を得るために歌手が去勢するなどというのは部分的自殺に属する。
しかし生命に害を及ぼすような器官を除去するとか、毛髪を切るといった事はこれには含まれない。しかしその場合でも、何らかの利益を目的にしている場合には、全く罪がないとは言えない。
問題
祖国を救うために死ぬ事が分かっていながら敵へと突進する事は自殺になるのか。それとも人類を救うための身を犠牲にするような殉教や英雄的行為と見なされるのか。自分の上官が不正な死刑宣告をした場合に、その前に自殺する事は許されるのか。あるいは王が敵に捕らわれて膨大な身代金を要求される前に、その王が自殺する事は許されるのか。
狂犬病に掛かった犬にかまれたが、自分はこの病気が治った人を知らない場合に、他人を不幸にしないために自殺するのはどうか。その行為によってその人は、不正をなしたのか。種痘を受ける者は自己の生命を保つために、自己の生命を危険にさらすのである。
狂犬病は潜伏期間中[約一ヶ月]にワクチンを用いれば完治しますが、発病すると現在でもほぼ100%死亡します。天然痘は既に地球上から根絶されていて、日本では1976年以降種痘は廃止されている。主な感染経路は空気伝染。致死率は30〜50%で、治癒しても盲目になったり顔面にアバタが残る。かつては人工的にウイルスを人体に植え付け免疫をつけたが、エドワード・ジェンナーによって牛痘(牛の天然痘)を用いるワクチン(Vaccineは、ラテン語の牝牛=Vaccaから)が開発された。人痘種痘法には危険が伴っていた。
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