西洋思想の源流から見る応用倫理学 6

生命倫理学の諸説紹介

前回に引き続き、死の定義に関わる諸説を教室で紹介いたします。

要約1「脳死と人格同一性」(一部紹介)

従来の医学的慣習の下では生きていると見なされたであろう患者が、死んでいると宣告される。脳機能の不可逆的喪失。脳死患者を死者と分類しようとする議論。

I.生物学的諸議論-生命医学の進歩によって死の再定義が必要になった。

II.道徳的諸議論-不可逆的昏睡者を際限なく無意味に維持しておく事の道徳的問題への解決として。

III.存在論的議論 - 脳死を人の死と見なすために有効な論拠となる。

カントの自殺禁止論

前回採り上げた自殺に関する問題を本格的に論じているカントの議論を、彼の『道徳哲学』[Metaphysik der Sitten. Metaphysische Anfangsgruende der Tugendlehre, Immanuel Kant (1797)]に則して紹介します。

自殺は自分に課せられた義務に背く事であると観られる。しかし人間が自分自身を辱め得るという事は理にそぐわないと思われる(なぜなら自ら欲して不正をなすものはないから)。

ストア派は、生きていても何の役にも立たない場合には、目の前の悪に煩わされることがななるために、安らかな魂を得て、喜んでこの世から立ち去ってゆく事を、賢者の優れた人格の一つと考えた。しかしそうした死を恐れない勇気と、自己の生命よりも更に価値のあるものを知る心の強さがあったならば、その強さによって、その強さを備えたような素晴らしい自己を、自ら破壊することなく、すなわち自ら生命を奪うような事をさせないようにさせなければならなかったであろう。

人間は義務について語り、生きている限り、人格を捨ててしまう事は出来ないのである。そしてあらゆる責任から逃れる権限を持っていると考えるのは矛盾である。自己自身の人格の内なる道徳性の主体を絶滅する事は、道徳性そのものの存在をこの世からなくしてしまうのである。

道徳性そのものが目的それ自体なのであるから、自分にとっての何らかの目的のために、その単なる手段として自己を扱う事は、自己の人格の内なる人間性の品位を奪う事である。人間は自らの人間性を保存するように委ねられているのである。

他人に移植するために歯を抜くとか、良い声を得るために歌手が去勢するなどというのは部分的自殺に属する。

しかし生命に害を及ぼすような器官を除去するとか、毛髪を切るといった事はこれには含まれない。しかしその場合でも、何らかの利益を目的にしている場合には、全く罪がないとは言えない。

問題

祖国を救うために死ぬ事が分かっていながら敵へと突進する事は自殺になるのか。それとも人類を救うための身を犠牲にするような殉教や英雄的行為と見なされるのか。自分の上官が不正な死刑宣告をした場合に、その前に自殺する事は許されるのか。あるいは王が敵に捕らわれて膨大な身代金を要求される前に、その王が自殺する事は許されるのか。

狂犬病に掛かった犬にかまれたが、自分はこの病気が治った人を知らない場合に、他人を不幸にしないために自殺するのはどうか。その行為によってその人は、不正をなしたのか。種痘を受ける者は自己の生命を保つために、自己の生命を危険にさらすのである。

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©SAITO Toshiyuki