地球規模での環境破壊に対して生まれたエコロジー(Ecology)運動を哲学・倫理学的にとらえ直そうという、1970年代に発足した新しい倫理学が環境倫理学(Environmental Ethics)です。
エコロジーのEco-は「経済学」と同じく古典ギリシア語のOikosすなわち「家」に由来している語です。家に関するlogos=理論的説明がエコロジーで、家に関してNemein(名詞形はNomos)すなわち家事や財産の管理をするというのがEconomicsの元の意味です。英語のEcologyは生態学などと訳されていますが、語源から分かるように、地球という大きな家の住人である我々人間が、どのように家の中で暮らしてゆくかに関わる事柄を扱うと考えられます。
この大きな家は、化石燃料の大量消費による二酸化炭素の発生に伴う温暖化現象、化石燃料それ自体の枯渇に関わるエネルギー問題、発展途上国で深刻な人口問題とそれに伴う食糧問題などなど、多くの課題を抱えています。
こうした課題に対して、何が問題となっているのか、どのように考えると問題が明確になるのか、問題を解決するためには何が障害となるのか、などなどを明らかにしようというのが環境倫理学の視点と思われます。
生命倫理学では人間の尊厳という視点が重要な役割を果たしている事を、我々は見てきました。しかしだからと言って、人間だけが配慮の対象であり、人間にのみ価値を認め、人間以外のものは単に手段として価値があるいった、悪しき意味の人間中心主義に陥ってしまってよいのかという疑問が提唱されるでしょう。
こうした悪しき「人間中心主義」を改め、「非人間主義」を採用する事は我々に自己犠牲を強いる事になるでしょう。果たしてそうした自己犠牲に我々は耐えられるでしょうか。この事は我々が試されているととらえられるかも知れません。
加藤尚武氏の『環境倫理学のすすめ』(参考書で紹介済み)によると、これまでに環境倫理学は次の三つの主張(だけ)をしているとしています。
以上の主張のなかに含まれる主張を検討してゆくと、環境倫理学が単に「自然を守りましょう」という主張をしているのではなく、社会全体の意思決定システムに対してこれまでにない影響を与える可能性を示している事が見えてくるのではないでしょうか。
生存権は人間にだけあって、それ以外のものにないとすると、人間が生きてゆくためならば自然を破壊しても良いという主張が正当化されます。
来週のこの時間は勤労感謝の日というメデタイ国民の祝日のお陰でこの講義もお休みですが、同じ趣旨のNational Holidayが米国にもあります。こちらは日本より一日早く22日だそうですが、Thanks Giving Dayといって七面鳥を食べる習慣があるそうです。
七面鳥に限らず人間以外の生き物を殺して、それを食料にして我々人間は生存しています。こうした生存権を例えば七面鳥に認めるならば、感謝祭には代わりに七面鳥の形をしたパンを焼いて食べる事になります。実際にこれを実行している人々が、少数ですが米国にもいるそうです。
もちろんその考え方を取れば、牛、豚、鶏(そして日本では鯨や馬、他の東アジアの国では猿や犬、猫!までを)を殺してその死肉を食べてはいけない事になります。われわれは普段から菜食主義者にならなければならないのでしょうか。これには無理があるので、何らかの論理で正当化する必要があります。
人間以外のものに生存権を認める側の主張の根拠の一つに、それらが魂を持つから、というものがあります。しかし魂と言っても様々なレベルがある事を前期にお話してきました。人間とそれ以外の生き物は、古代ギリシア人によれば共に魂を持ちます。彼らによれば生きているものは魂を持つのですから、植物も魂を持つとされます。
もし魂を持つ事が生存権の条件だとすれば、菜食主義さえ許されない事になるでしょう。こうなると人間は生きてゆけなくなります。ここが生存権による主張の難しさです。ですから単純に「魂を持つもの」などと言ってはいけないのです。もう少し教養のある人でしたら、知性なり理性のある事を条件に挙げなければならないというかも知れません。
生存権を始めとする諸権利をどこまで誰に拡大すべきかという問題は、問題の多い議論を引き起こします。知性を権利授与の条件とすると、胎児や高度の脳障害をもつ人は権利を与えられなくなります。人間の定義が時代や個人によって異なっているのでは、キリスト教による神、人間、動物という区分も万能ではありません。
初回原稿ではこの続きがありましたが、実際の講義において時間切れとなりましたので次回に転載しました。