環境を破壊し資源を使い尽くすという行為は、現代人を加害者にし、未来の世代を被害者にします。化石燃料(石炭や石油)の量は有限でありいずれ使い尽くされるという事は、広く知られた指摘です。しかも新たな大規模埋蔵の発見がない限り、あとわずか(数値には諸説ありますが最短で数十年、最長でも100年あまりです)で、いずれ現行の主要エネルギー源は底をついてしまう事は動かし難い事実です。
長い人類の歴史の中で、現行世代(およびその前後数世代)だけがそうした資源を独占する事の可否が問題となるでしょう。
環境破壊もまた世代間倫理に関わります。我々が破壊した環境の下で、未来の世代は自分たちがそれを壊したのではないにも関わらず不利益を被って、生まれ、暮らして行かねばなりません。
こうした問題を先に挙げた加藤氏は「現在世代の未来世代への犯罪」(p.6)とさえ呼んでいます。両者を「決定集団」と「利害集団」分けて考える事も出来るでしょう。
生命倫理学で元に据えられた「自己決定権」という考え方は、こうした世代間倫理の問題に解決をもたらせるのでしょうか。先に見たように、自然の生存権を認めるとすると、人間の側に何らかの譲歩を要求する事になるかも知れません。世代間倫理においても、現行世代に自己決定権を何らか点で譲歩せざるを得ない事を強いるかも知れません。
しかし自己決定権の主張には、他者に危害を及ぼさない限り、という条件も付随していました。すると、有限な資源を私たちが使う事は、将来の世代がそれを使う可能性を否定する事に直結します。あるいは将来の世代の犠牲なしに有限な資源を使う事は出来ない、と言った方が分かりやすいでしょうか。
我々にはピンと来ないかも知れませんが、こうした思考法はかつての封建社会においては当然の事として受け入れられていたようです。(続く詳細は教室にて。以下概略)
地球の生態系は開いた宇宙ではなくて閉じた世界である、という主張はどんな風に考えたら良いのでしょうか。閉じた世界というのは、資源やエネルギーの量が有限だという事です。その有限な資源を利用する際に優先するのは、生存可能性と考えられます。
宇宙船地球号という表現は、地球全体主義の考え方をよく表していると思います。その船の舵取りをどのようにとってゆくかを、我々は考えなければなりません。しかし我々にすっかり染み付いてしまっている無限の成長・進歩という観念を振り払うのは、実際にはそう簡単ではないでしょう。
命の維持は他の選択可能性に優先します。現行世代が化石燃料を使わなければ死滅してしまうとしたら、我々は未来の世代の生存可能性をたとえ否定してでも化石燃料を使うでしょう。未来の世代の生存可能性を残すために、それを使わないとしたら現在の人類の命の維持が出来なくなってしまいます。
しかしこうした問題提起には、直ちに反論が予想できます。すなわち資源が有限である事実は動かせないとしても、省エネや新たな技術革新によって現行世代と未来の世代が共に生き残る道があるのではないかと。技術の進歩によって解決できる問題は確かに多いでしょう。
しかし技術の進歩によって取り得る可能性は広がるとしても、その中からどれを選ぶべきかを考えるという倫理的問題は依然として残るでしょう。
人口問題として環境問題をとらえる視点があります。世界の総人口は現在53億人ほどですが、一人当たりの二酸化炭素排出量が変わらなくても、総人口そのものが減少すれば排出量は減る事になります。人口問題の解決は地球温暖化だけでなく食糧問題も、エネルギー問題も一挙に解決してくれそうです。
しかし将来の地球の総人口が、100億以下に留まるだろうと予測する専門家は残念ながらあまりいないようです。そこで人間にできる事は人口の爆発的増加に歯止めをかける抑制策という事になります。なにせ人口が急激に増加しだしたのは、人類の歴史全体から見るとごく最近の事だからです。
ここに新たな倫理上の問題が生まれます。果たして人口抑制を人為的にやってよろしいのか、という問題です。すでに行われている中国における「一人っ子政策」のようなものを、全世界的規模で行わなければならないという主張に対して、どのような事が考えられるでしょうか。(人口爆発国における人工妊娠中絶を、それ以外の国での中絶手術と区別しても良い、という主張について考えてみましょう)
自己決定権に見られるように、生命倫理学の主張の元には個人主義的自由主義がありました。自分の事は自分で決めて良いという主張は、自分の所有する財産をどのように使うかを自分で決めて良いという近代的財産権の主張だけではなく、自分の体の使い方、さらに言えば自らの「生き死に」まで自分で決められるという主張であった訳です。
こうした主張・立場に対して、環境倫理学では異なった視点を導入します。「自分」として考えられるのは人間だけではなくその他の動物・生き物・自然の環境生態にまで生存権を拡大しようとします。また、未来の世代に対する責任であるとか、被害・加害関係を考慮すべきであるとも主張します。さらに、個人主義に対しては地球規模の意思決定を要求します。
これらを個人主義に対する全体主義と呼ぶ事も出来るでしょう。
未来の世代に対して、現代の我々は何らかの義務を持つのでしょうか。この主張が成立する根拠については教室でお話します。(以下、概略のみ)