周王朝が衰えると、中国では有力諸侯が王を称して覇権を競う、春秋・戦国時代となります。諸侯は国力の充実に努め、有用な人材の登用を行うようになりました。こうした状況の中で登場したのが、諸子百家と呼ばれる思想家たちです。
主な学派である儒家、道家、墨家、法家、名家、陰陽家を六家と言う。その他、縦横家、兵家などが知られます。
孔子(こうし)とその流れをくむ思想家たちを、儒家(じゅか)と言います。孔子の死後、孟子(もうし)、荀子(じゅんし)らによって発展しました。孔子は春秋時代末期に魯(ろ)の国で生まれ、役人となり母国の改革に努めたが成功せず、老後は弟子の教育に専念しました。社会の秩序である礼を重んじ、仁を説きました。
老子(ろうし)を祖とし荘子(そうじ)に受けつがれた学派で、老子の『道徳経』に基づく事から道家と言います。儒家の道徳の説を人為的であるとして批判し、自然に素直に従う事=無為自然の中に理想を見出しました。
墨子(ぼくし)を祖とする学派で、平和主義の立場から兼愛(兼愛交利説とも言う)、非攻説が知られ、倹約を説いきました。墨子の根本となる主張である「兼愛」とは、自分と他人を区別しない愛の事です。人間が自己中心的になると社会全体が混乱に陥ると墨子は考えました。お互いに他人を愛すれば、相手に利益(=交利)がもたらされると考えました。
人々の幸福のために戦争を否定する「非攻説」を唱えました。戦争で人を殺して国の勢力を伸ばすのは間違った考えであるとします。しかし外国から攻められた場合の、自衛のための戦争は否定しませんでした。
礼や道徳ではなく、法律や刑罰によって国を治めてゆこうという法治主義を説く学派であり、秦の始皇帝によって採用されました。法律による信賞必罰、君主への権力集中を唱えたて法家の思想を大成したのは、儒家の荀子に学んだ韓非子(かんぴし)です。
名(言葉)と実(実体)の分析を通じて弁論に通じた学派。恵施や「白馬非馬論」で知られる公孫竜(こうそんりゅう)がいます。
中国古来の宇宙論である陰陽五行説を唱えたとされる学派。「陰陽」とは光と影、プラスとマイナスの事であり、「五行」は「木、火、土、金、水」の事です。宇宙の出来事はこうした要素の組み合わせによっていて、それは人間にも影響を及ぼすと主張されました。しかし後には「天人感応説」と言って、人間がこの法則を守る事によって外部へと影響を与える事ができるという、非合理的な主張に発展しました。「風水」や日本の「陰陽道」はその系列にあります。
諸国が覇権を競っていた時代に、蘇秦(そしん)は「燕」「趙」「韓」「魏」「斉」「楚」の南北(=縦)に連なる6ヶ国が連合して西の秦に対抗すべきだと唱えました。対して張儀(ちょうぎ)は各国が西の秦と東西(=横)に和を結ぶべきだとしました。両者を併せて合従連衡と言います。
戦術や用兵を説いた学派。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」とは孫子(そんし)の言葉に由来します。
孔子の思想の柱となるのは、「仁」という概念(がいねん、考え方)でしょう。それは人と人との間に自然に生じる「愛」の事と考えられます。具体的には、自分が持つ誠実さや「まごころ」を忠(ちゅう)、他人に対する思いやりの気持ちを恕(じょ)となります。
また親子、兄弟の間に見られる愛を孝悌(こうてい)と言います。それは親に尽くす、すなわち親孝行の「考」であり、「悌」は年長の者に従う事を指しています。
自分勝手なわがままを抑え(=克己、こっき)、「仁」の心持ちを行動として外に表す事を「礼」と呼んで強調しました。これを克己復礼(こっきふくれい)と言います。心の中だけで「仁」を有していたのでは十分ではなく、その気持ちを行動に移して「礼」となして人間の理想は完成すると孔子は考えたのです。
孔子の思想は支配者(=君子、くんし)のための教えでもあります。人の上に立つ者は徳を備え(=有徳)ていなければならならず、理想的な君子は「聖人」と呼ばれました。君子は自らの持つ徳によって民の見本となり、民はそれに習う事によって政治が行われると考えたのです(=徳治主義)。
孔子の思想は弟子たちが編纂した『論語』に収められています。
孔子の思想を受け継いで発展させたのが、孟子です。彼によると、人間の本性は善である(性善説)とされます。人間は生まれながらに徳の芽(=端)を持っていて、それは四端と呼ばれます。
四端を育ててやれば、「惻隠」から「仁」が、「羞悪」から「義」が、「辞譲」から「礼」が、「是非」から「智」という四徳が実現できると考えました。
しかし現実世界には悪人のいる事を認めなければなりません。悪人とは四端を生まれ持っているにも関わらず、外界からの快楽におぼれ、心の働き、すなわち思考能力を発揮させなかったために生じると説明しています。
このように人間の持つ道徳心を信頼する孟子は、心に生じる道徳を実践しようという気持ちを浩然の気(こうぜんのき)と呼び、それを身に付けた大丈夫を理想としました。
彼によると人間の本性は悪であって、生まれながらに自分の利益ばかり考えています。そこから争いが生じ、悪となります(=性悪説)。そこで「礼」を教えて欲望を抑える事を学ばせ、ルールに従うよう教育する事の重要さを説きました。
ここから弟子の韓非子は法家の思想を発展させてゆく事になります。
老子に始まって荘子によって発展させられたので、老荘思想とも呼びます。老子の生涯は不明で、その実在を疑う説さえあります。
彼は万物の根源を道(タオ)と仮に呼び、それは対象としてはとらえられず、名前すらない無であるとしました。この宇宙は無から生じて無に帰すと考えました。
こうした宇宙では、道徳などの人間の行いは無力であって、自然の道に従って生きる事を理想としました(=無為自然)。儒教の教えは本来の道が廃れたために生まれた(=「大道廃れて仁義あり」)ものに過ぎないと主張しました。
彼は、自然に従い他人と争わず、柔和な態度をとる事こそ理想の生き方としました(=柔弱謙下、じゅうじゃくけんげ)。またそうした心持ちの少数の人々からなる、自給自足の小国家を理想としました(=小国寡民)。
老子の思想をついで発展させたのが荘子です。老子が政治や社会に関心を向けたのに対して、彼は個人の自由に向かいました。自然には一切の対立や差別がなく、全ては同一であると考えました(=万物斉同、ばんぶつせいどう)。
対して人間の知識の範囲は限られており、判断も相対的であるとしました。人間がこの世界の不完全な知識や名声にこだわっている間は、苦しみが絶える事はありません。そうしたこだわりを捨て、自然と一体(=心斎座忘、しんさいざぼう)にならねばならないと説いたのです。
儒教の教えの中心は四書・五経にまとめられ、漢王朝以降にはこれらを研究する儒学が成立した。四書とは『論語』、『孟子』、『大学』、『中庸』であり、五経とは『詩経』、『書経』、『易経』、『春秋』、『礼記』(らいき)を指します。
そうした研究の中から、宋代に現れたのが朱子学です。朱子は自然万物と人間の観念的原理は同じ理であるとし、形を持ち運動する物質としての原理を気としました。これら両者から万物は成ると考えました。これを理気二元論と言います。
欲を捨て(=居敬)、理を極め(=窮理)万物の理と一体化する事を重視しました。このように居敬と窮理によって理想の人間になる事を格物致知(かくぶつちち)と言います。
中国や日本では朱子学が正統なものとされ、元代以降の科挙に追加された「四書」の試験では、朱子の注に従う事が定められるなどしました。
明王朝の時代には陽明学が成立しました。朱子は人間の本質(=性)が理であるとする考え方(=性即理)をしましたが、王陽明はこれを批判し、生まれながらの心のあり方(=心)が理であるとしました(=心即理)。
また朱子の「格物致知」に対して、人間が生まれながらに持つ善悪判断能力(=良知)に従って生きる事によって善が実現すると考えました(=致良知、ちりょうち)。また「知行合一」も陽明学の用語です。