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プラトンのイデア論の中でも解釈の要ともなるいわゆる「エイドスの交わり」に関する議論を対話篇の中での一貫性に配慮しつつ解釈した。通常イデアは個物と交わりを持つがイデアもまた相互に交わり、そのことが基になって初めて我々はイデアについての知恵を持ち得るのである。従来の議論がともすれば言語分析の先取りと当該箇所を捕えがちになるのを批判しつつ、ギリシア語テキストに基きプラトンのイデア論の中での本来の意図を明らかにした。
イデア相互の交わりの議論の中で「あらぬもの」がいかにして言表可能となるかについて論じた。「あらぬもの」には全くの非存在以外にも「あるとは異なる」の成立する可能性を初めて指摘したプラトンが自らのイデア論を用いて論証している過程を追った。この論証によって偽の成立不可能性を説くソフィストに対してプラトンは、哲学の立場から正当な批判をなすことが出来たのである。
プラトンの『法律』を中心に扱い、魂の在り方と不正行為についてプラトンがどの様な見解を持っていたのかについて、不正の後に加えられる刑罰の観点から論じたものである。彼によれば最大の刑罰とは死刑ではなく、悪しき人々に似ることである。また刑罰が通常苦痛を伴うのは単にそれが報いであるばかりではなく、悪しき魂を持つ人には苦痛が相応しいからである。
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悪の起源について魂の在り方と共に論じたものである。悪の問題はプラトンの場合、魂と引き離し難く結び付いている。悪は肉体を持つ人間が自らの肉体ゆえに、あるいはその物体性ゆえに生じると考えられる面が強調されてきた。しかしそうした考え方は悪の原因を肉体、物体という本来的自己ではないものに帰して事の責任を自らに負わないで済ます余地を与えるものであった。そうではなく、自分自身に他ならないもの、プラトンによれば魂にこそ責任を負わせ、真正面から真剣に生きることを訴えたのがプラトンの哲学であった。魂の持つ知性に由来する悪が成立する可能性を論じた。
プラトンの『政治家』における神話解釈に先立ち、そこで論じられているのが二つの時期なのか三つの時期なのかという点について、従来の解釈と近年提案された解釈の双方を批判的に検討し、三時期説でなければならない事を論じた。
プラトンの『政治家』における神話部のテキストを詳細に検討し、そこに見られる宇宙の魂と彼の世界観について論じたものである。最新の学説に従い神話で語られている事態が三つの時期であるとの解釈を取り、それによりプラトンの魂への配慮の勧めが彼の世界観からも裏付けられていることを明らかにした。
哲学の方法としてプラトンが、独自のディアレクティケーを考えていたことには間違いはない。しかし、イデアへと至る道であるディアレクティケーがいわゆる後期対話篇においては、分割法へと変容し定義を得る手段となっていると考える立場もある。しかし両者は矛盾せず、分割にはイデアの洞察という総合が先行せねばならず、そうした分割法にプラトンは期待をかけていたことを主張する。
『ティマイオス』でプラトンは、魂の三部分を身体の部分である器官に割り当てているように思われ、魂が身体に依存してると理解出来得る説を述べている。しかし魂とは元来非物体的であったはずである。この問題をプロティノスの魂に関する教説を手掛かりにして考察している。
(西洋古典研究会論集に掲載した原稿)
『法律』第九巻においてプラトンは、犯罪と刑罰の本質ついて検討を行い犯罪の不本意性(第5章)、損害行為と不正行為の区別(第6章)、犯罪の原因(第7章)などについて詳論した後、第8章の866d〜7cにおいて怒りに駆られて起こされる殺人(killing in anger以下KAと略す)について触れている。
KAは二つの場合に分けられている。一つ目は「突発的に、しかも殺そうという考えはなかったのに、殴るとかそういう行為によって、その時の衝動のままに、誰かをその場で殺してしまい、そして事が終った後では直ちに後悔するというような人たち」(866d7-e3)のなすものであり、二つ目は「誰かから侮辱的な言葉や行動によって辱められたために、その復讐をしようとして後日計画的にその者を殺し、しかもその行為に対しては後悔しない人たち」(866e3-6) のなすものである。これら二種類のKAは、自発的と不本意の殺人の中間であるとされ、それぞれがそれぞれに似ているとされるのである(867a1-2)。相違点として直ぐに感知されるのは、a当の行為に及ぶ前に、どの程度どれくらいの間、挑発や辱めその他何らかの怒りを引き起こすような仕打ちを相手からされたのかという点と、b当の行為の後に、後悔するかしないかという点である。さらにbは前者では事が終った後では直ちにそうするのに、後者では直ちにそうしないのみならず何時まで経ってもそうしないという違いとなっている。
確かに両者とも殺人を行った事実に変わりは無いものの、その動機を形成する当人のエートスに外部から与えられた要因の大きさによって、責任の所在を明らかにしようというのがaの視点であり、さらに後悔の有無とは、当人が魂においていかなるエートスをしているかの見極めに有効であると考えられる視点である(b)。こうした点をプラトンはKAに関する議論の中で論じようとしていたと我々としては解するのである。