パルメニデスの断片の内、最も注目されるのは「あるものはあるのであり、あらぬものはあらぬ」(断片6)、「あらぬものがあるという事は、決して強いられることはないであろう」(断片7)であろう。また「あるは不正不滅」(断片8)であると語られる。
「ある」ものはひたすらあり、「あらぬ」ものが「ある」ことはない。この言明は何を意味するのであろうか。これまで見てきた「愛知者」たちは生成変化するこの世界の始原(アルケー)として、水や空気などを置き、そこからこの世界が生まれたと説いてきた。しかしこうした生成・変化をパルメニデスは認めないのである。「あらぬ」であったものが、「ある」ようになったり、「ある」ものが「あらぬ」ようになるのが生成・変化であるからだ。
厳密な意味で「ある」の名を冠されるものは、あったり無かったりしていたのでは、真の意味での「ある」ではない、とパルメニデスは言っていると考えられる。このように考えると、生成・変化すなわち、運動も否定されるし、世界の多様性も否定されるように思われる。なぜなら移り変わってしまうものは「ある」のではないのだから。彼の考える「ある」は、生成消滅、運動変化を一切しない、ただひたすら「ある」だけの完全完璧な「球形をした塊」(断片8)であるという。
では、パルメニデスはこの世界をどのように見ていたのであろうか。「道に迷った」われわれが、「世界の形成について」(断片8以下)語る第2部については、様々な解釈がある。しかし第1部でキッパリと「ある」と「あらぬ」の区分をしたからには、両者の相互移行を許容するこの世界について説明をしようというのは、本来否定し去られるべきであると考えられる。パルメニデスが「ある」と「あらぬ」の中間に「ありかつあらぬ」「道」を許容しない事を忘れてはならない。それは世の人々が陥っている「思惑」に過ぎない。人々の過ちを失われた第二部の後半で彼は厳しく批判したのではないであろうか。
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