喫煙に関して未成年が規制される理由として、未成年には愚行権がないという見方が考えられます。個人の価値観は多様であって、他人の価値観を尊重しなければなりません。たとえば、私から見て嫌悪しか感じられない音楽であっても、当人が気に入って聞いて楽しむのは自由です。
しかし日本では芸術は自由だが単なる卑猥なモノは法の規制対象となります。しかしそれを有害であると知りながらも大人が「自分の好みで」聞いたり見たりするのを止める事は出来ないというのが自由主義の考え方です。
しかし判断が十分に出来ない「とされる」未成年が、同じ事をしようとする場合には規制する事ができると考えるのです。喫煙の「有害さ」を知った上で愚行権を行使する大人と、知らずに「有害さ」を被ってしまう未成年を区別するのです。この件に関しては、未成年による「自己意思の表明」が可能か、という問題が派生してきます。臓器移植の際に大人は自らの意思によって自分の臓器を提供するかしないかを決定できるとされています。しかし未成年の場合には疑念が生じる、という点です。ここは各自で考え方が分かれる点でしょう。
また上記の「エホバの証人」の信者による輸血の拒否で亡くなった少年の場合はどうでしょうか。この例で子供は「死にたくはない」と言っていたそうだが、「死にたくはないが、輸血は受けたくない」と言っていたのか、「死にたくはない」とだけ主張していて「輸血を拒否してはいない」かは不明であったようです。しかし保護者や押しかけた信者によって、病院は輸血を行いませんでした。この事例を考えてみて下さい。一般に保護者が当人(未成年者)の利益を十分に代弁していないと考えられる場合には保護者の親権は剥奪され、未成年者を保護施設に移したり、第三者が親権を代行する事が考えられます。
我が国では臓器移植に限って脳死を人の死と定めています。すなわち臓器移植を行わない場合には、従来通りの基準によって人の死が判定されるのです。この点は最初に留意しておくべきでしょう。すなわち我が国ではドナーカードの有無によって自分の生き死にの判定基準を自分で事前に選択できるのです。
脳死についての定義の根拠となっている、ハーバード大学医学部の特別委員会報告によると、「いつまで続くか分からない昏睡という苦痛から、患者、親族、医学資源を救う事」および「移植のための臓器の入手についての論争を終わらせる事」が脳死を人と考える理由として挙げられている。
ここで第一の理由は本来的なものではなく、第二の理由が主たる理由であることは明らかである。この特別委員会の委員長であったヘンリー・K・ビーチャー博士は次のように述べている。
「回復の見込みなく無意識状態にある患者の組織や臓器が、それを使わなければ絶望的な病状にあるが、しかしまだ救助可能な個人を回復させるために使う事が出来る場合に、社会はそれらの組織や臓器を捨てる事を容認し得るか」
「臓器の移植に関する法律施行規則」(H.9.10.8)によると、「脳の器質的な障害及び自発呼吸を消失した状態と認められ、かつ、器質的脳障害の原因となる疾患が確実に診断されていて、原疾患に対して行い得るすべての適切な治療を行った場合であっても回復の可能性がないと認められる者」に対して、いわゆる脳死判定が行われるとされています。
簡単に言えば、その状態に至ったならば、回復する見込みがない事を「不可逆的停止」と定義し、それをもって人体を死体と見なして良いと考えるという事のようです。それ以前に臓器を取り出すと、それは生体実験と見なされるので、これを避けるために法律で死の定義をしようという訳です。
どうやら医者は当初、「脳死」状態になると数日で従来の定義による「死」を迎えると考えていた節がありますが、現実には数週間、数ヶ月、場合によっては10年以上もの長きに渡って生存した例が報告されています。
また、脳死となった(死体ではなく)「患者」が自発的に四肢を動かすという「ラザロ徴候」(ラザロとは新約聖書でイエスによって死から蘇らされた人物)が、脳死判定を終えて人工呼吸器を取り外した後に観察されています。