安楽死と尊厳死2

オランダ安楽死法の概略

「不治の病で耐えられない苦痛がある患者が自発的意思で希望した場合、安楽死の措置をした医師の刑事責任を問わないという内容。他に、(1)患者への情報提供(2)代替手段がないこと(3)第三者の医師との相談などが義務付けられている。非在住者の安楽死には適用されない」「患者は、こん睡状態などの事態に備え、事前に安楽死希望の書類を記しておくこともできる。安楽死が認められる患者は12歳以上で、16歳未満の場合は親権者の同意が必要とされる」

自殺

自分に関する事を自分で決めるという事、自己決定権、さらには愚行権を認めるとするならば、自分が死ぬ事も認める事になるのでしょうか。あるいは不治の病にかかった患者が安らかに死ぬ権利=安楽死をする権利は認められるのでしょうか。前者については一般に認められてはいないにもかかわらず、厚生労働省の統計によると、毎年我が国では3万人以上の人が自殺によって亡くなっています。あるいは自殺は認められないのに、安楽死は容認されるという観点もあります。

先ず始めに自殺を禁止する論理について概観します。そもそも自殺を希望する当人にとっては、生きる事よりも死ぬ事の方が何らかの観点でプラスであると思われているのでしょうか。ここで分けて考えなければならないのは、生に絶望して死の方が利益があると考えての自殺と、死の方が利益があるとは考えないが、かといって生きてはいられないと考えての自殺です。後者は愚行権によって正当化されるでしょうか。生に絶望した人が、ヘビースモーカーになって、癌で死ぬ事を願うとしたらどうでしょうか。

生きるとか死ぬといった極めて個人的な事柄であっても、これほど多くの人が亡くなってゆくのを社会は見過ごす事は出来ません。そこで社会は自殺する事を、宗教の倫理や道徳によって禁止します。

前回の話でも出てきましたが、未成年者に対して保護者が未成年者にとっての最善を考慮していない、適切な対応を取っていないと国家によって判断されると、国家が保護者の役割を取って代わります。

この考え方が自殺に関しては成人に対して当てはめられます。かつて西洋では自殺それ自体が犯罪として禁じられたいました。現在は自殺は犯罪ではありませんが、自殺幇助(ほうじょ)、妨害排除、助言、調達は犯罪とされています。

思想史的には自殺を賞賛したストアの倫理が有名です。しかしストアでも凡人の自殺は勧められるものではありませんでした。知を獲得した賢者(知者)だけが、身体をも完全にコントロールした上で生よりも死を選び得るとされていたに過ぎません。しかしその後のキリスト教倫理の中で、自殺が禁止されました。神の許しを得ずして勝手に死に行く事は、ギリシアで自殺が禁じられるのと同じ理由です。

もし「他人を殺してはならない」というのを認める事が出来るなら、「自分を」殺す事をしてはならない、を認める事になるでしょうか。少なくとも、宗教道徳で自殺を禁じているのは、AさんがBさんを殺してはならないのであるから、AさんはAさんも殺してはならない、という論理が働いているように思えます。

しかしここで殺されるAさんは、殺すAさんと同一人物ですから、殺されるAさんは殺される事に同意している事になります。その場合に殺すAさんには、殺人が認められるのでしょうか。このように言い換えて考えた場合、答えはどのようになるでしょうか。

メニュー

次回