生存権は人間にだけあって、それ以外のものにないとすると、人間が生きてゆくためならば自然を破壊しても良いという主張が正当化されます。
来週のこの時間は勤労感謝の日というメデタイ国民の祝日のお陰でこの講義もお休みですが、同じ趣旨のNational Holidayが米国にもあります。こちらは日本より一日早く22日だそうですが、Thanks Giving Dayといって七面鳥を食べる習慣があるそうです。七面鳥に限らず人間以外の生き物を殺して、それを食料にして我々人間は生存しています。こうした生存権を例えば七面鳥に認めるならば、感謝祭には代わりに七面鳥の形をしたパンを焼いて食べる事になります。実際にこれを実行している人々が、少数ですが米国にもいるそうです。
もちろんその考え方を取れば、牛、豚、鶏(そして日本では鯨や馬、他の東アジアの国では猿や犬、猫!までを)を殺してその死肉を食べてはいけない事になります。われわれは普段から菜食主義者にならなければならないのでしょうか。これには無理があるので、何らかの論理で正当化する必要があります。人間以外のものに生存権を認める側の主張の根拠の一つに、それらが魂を持つから、というものがあります。しかし魂と言っても様々なレベルがある事を前期にお話してきました。人間とそれ以外の生き物は、古代ギリシア人によれば共に魂を持ちます。彼らによれば生きているものは魂を持つのですから、植物も魂を持つとされます。
もし魂を持つ事が生存権の条件だとすれば、菜食主義さえ許されない事になるでしょう。こうなると人間は生きてゆけなくなります。ここが生存権による主張の難しさです。ですから単純に「魂を持つもの」などと言ってはならないのです。もう少し教養のある人でしたら、知性なり理性のある事を条件に挙げなければならないというかも知れません。
この主張は直ちに、鯨の肉を食する是非に関わってきます。家畜を食する是非についてはどんな論理が働いているか、考えてみて下さい。また知性のあるなしに関わらず、絶滅の危機に瀕している種を保存するという主張には、どんな論理が働いているのでしょうか。
生存権を始めとする諸権利をどこまで誰に拡大すべきかという問題は、問題の多い議論を引き起こします。知性を権利授与の条件とすると、胎児や高度の脳障害をもつ人は権利を与えられなくなります。人間の定義が時代や個人によって異なっているのでは、キリスト教による神、人間、動物という区分も万能ではありません。
かつて女性や黒人に公民権が与えられなかった歴史を考えて下さい。時代をさかのぼれば、貴族、さらには皇帝一人だけに権利があって、それ以外の人間には人間としての権利はありませんでした。
環境を破壊し資源を使い尽くすという行為は、現代人を加害者にし、未来の世代を被害者にします。化石燃料(石炭や石油)の量は有限でありいずれ使い尽くされるという事は、広く知られた指摘です。しかも新たな大規模埋蔵の発見がない限り、あとわずか(数値には諸説ありますが最短で数十年、最長でも100年あまりです)で、いずれ現行の主要エネルギー源は底をついてしまう事は動かし難い事実です。
長い人類の歴史の中で、現行世代(およびその前後数世代)だけがそうした資源を独占する事の可否が問題となるでしょう。
環境破壊もまた世代間倫理に関わります。我々が破壊した環境の下で、未来の世代は自分たちがそれを壊したのではないにも関わらず不利益を被って、生まれ、暮らして行かねばなりません。こうした問題を先に挙げた加藤氏は「現在世代の未来世代への犯罪」(p.6)とさえ呼んでいます。両者を「決定集団」と「利害集団」分けて考える事も出来るでしょう。
生命倫理学で元に据えられた「自己決定権」という考え方は、こうした世代間倫理の問題に解決をもたらせるのでしょうか。先に見たように、自然の生存権を認めるとすると、人間の側に何らかの譲歩を要求する事になるかも知れません。世代間倫理においても、現行世代に自己決定権を何らか点で譲歩せざるを得ない事を強いるかも知れません。
しかし自己決定権の主張には、他者に危害を及ぼさない限り、という条件も付随していました。すると、有限な資源を私たちが使う事は、将来の世代がそれを使う可能性を否定する事に直結します。あるいは将来の世代の犠牲なしに有限な資源を使う事は出来ない、と言った方が分かりやすいでしょうか。
我々にはピンと来ないかも知れませんが、こうした思考法はかつての封建社会においては当然の事として受け入れられていたようです。(この項、続く詳細は教室にて)