哲学の窓

ここは生きてゆく上で出会う様々な問題について、哲学なりの考え方で取り組んで行こうという試みです。質問を寄せてくれるのは、高校生や大学の後輩たちです。今後はメールで送っていただいたテーマも順に取り上げたいと思います。

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第1話

人間には「」があるという前提でお話をしていますが、魂って何ですか?人間を生かしているのは遺伝子の力ではありませんか?

いきなり難しい質問です。しかし偉い先生ですと、それは難しい質問ですね、で済ませてしまわれるかも知れません。私は偉くはないのでその手は使えません。魂という言葉が使えているという事は、魂について何かイメージするものがあるからです。あなたがイメージしている魂と、がイメージしている魂は同じでしょうか?

そこが違っていては話が噛み合わなくなってしまいます。あなたが考えている魂とは何ですか?それをはっきりさせるうちに、何をあなたが問題にしているかが自分でも分かって来るでしょう。

人間を生かしている、「もの」を聞きたいんですね。現代科学では二重螺旋のDNAがその責任者ということになっています。DNAは放っておいても自分と同じものを複製して、細胞を増殖させます。こうして生き物は成長して行くんですね。

骨や肉が「もの」であるのは、人工臓器や移植手術を考えるまでもなくはっきりしています。どうやらあなたが聞きたいのは、「もの」を動かしているのは他の「もの」なのではないか?という事のようです。私は魂を終始「もの」ではないと言っている訳ですから、その点をあなたは疑問に思ったのですね。

古代ギリシア人にとって魂は当然のものであったろうが、現代に暮らす我々にはそんなものは当然ではないと言いたいのですね。もちろん恐らく現代よりは当然と「思う」人は多かったでしょう。しかし皆がみんな当然と「思って」はいなかったようです。プラトンという人の書いた『パイドン』という題名の本の中にこんな話があります。個所は専門家ではないあなたのために新潮文庫のページ数で言いますと192ページから193ページを読んでみて下さい。岩波文庫の岩田先生の訳なら126ページから128ぺージです。専門家が使う呼び名では、98Cから99Bという個所です。

話を簡単に紹介しますとこんな具合です。死刑の判決をうけて執行を牢屋で待っているソクラテスがいます。彼がそこに座っているのは何によってでしょうか?彼の体が骨と腱から出来ていて、腱が骨をこれこれの仕方で引っ張っているから、足が曲がり座っている。こんな風に説明する考え方があります。

しかし登場人物のソクラテスという男が求めている説明は、そんなものではありません。彼がそこに座っているのは、アテナイの裁判所で死刑の判決をうけたからです。しかも彼は牢獄から逃げ出さずにいる方が善いと考えたので、そこに座っているのです。腱や骨というのは、それらがなければ「自分」に善いと思われた事を実際に行う事の出来ないものではある。しかしそれらのものが何らかの事を行わせているのではない、とこの男は言いたいらしいのです。

この話は直接には魂と物質の話ではありませんが、今の問題と関係があるように見えます。つまり「もの」である骨や腱、もっと現代人らしくDNAとかRNAと言っても良いでしょう、そうした物質がなければ、生き物は成長も再生もできないでしょう。しかしそうした物質の働きに「よって」我々は生きているのでしょうか?あなたはそれを自己保存の本能とか、利己的遺伝子の働きといった表現で言いたいのでしょうね。

ここでソクラテスという男に、利己的遺伝子というのを説明したら納得してくれるでしょうか?きっと彼はそれに働きかけているもっと大元の原因をたずねて来るでしょう。それは物質ですかと。現代科学では、究極の原因を突き詰めて説明出来てはいません。生命の起源を物質であるアミノ酸から出来たらしいたんぱく質にまではさかのぼれていますが、その物質が「生命」になった大元の原因は空欄のままです。

何が生命を誕生させ、何が今のあなたを今あるようにさせているのか。物質による説明は、「どのようにして」は明らかに出来ても、「なぜ」については答えてくれません。原理的に答えを放棄しているのです。物質の大元を物質に求めていたのでは、「きり」がなく後退して行くだけです。大元に物質ではない「もの」を立てない限り、後退は続きます。「なぜ」という問いに答えるものとして、プラトンという男は「イデア」という非物質を立てました。今の問題で言うと、生命の大元に非物質である「魂」を立てるというのは、そういう意味なのです。

第 2 話

まだ納得が行きません。遺伝子を持つものを我々は生命と呼び、持たないものを物質と言っているのではありませんか?魂とはそうした「力」の事ではありませんか?

あなたの言う生命と物質の違いは何ですか。遺伝子を持っているものが自己再生する点でしょうか。話を動物だけではなく植物にまで広げても「自ら成長する」ものが生命を持つものといえるでしょう。ですから我々は火山や鍾乳石を「生きている」と表現します。もちろんこれらはたとえとしてです。そうしたものどもは「自ら」成長しているのではありませんからね。

また成長以外にも運動というのも、生命を持つものに見られる特徴です。原初的なものを除いて、植物は自力では移動できませんが、場所の変化を運動というなら、それ以外の変化は植物もしています。

また生命を持つものは、自分の外のものについての感覚を持つという特徴も有しているように思われます。植物でさえ音楽を聴いて反応するという説を聞いたことがあるでしょう。もっと高度な生命を持つものは、ものを考えているようにも思われます。これらの事を行う力を遺伝子に由来する力に求めるのですね。そうした力は物質でしょうか。あなたは力をエネルギーとかエントロピーと言い換えるのですね。良いでしょう。私が「魂」という言葉で表したいのはそうしたものなのかも知れません。物質を変容させる元の「もの」という意味なら、そうでしょう。

決してこれは宗教がかっている話でも、アナクロニズムでもありません。究極の原因に目を向けて考えると科学の与える説明には満足出来ないという事を言いたかったのです。力と言いますが、力の源について説明を与えてくれない限り私たちはそうした答えには満足出来ないのです。

こんな話を聞いたことはありませんか。日本の夏が涼しいのは、エルニーニョ現象が原因だと。南米沖の太平洋の海水温に異常が生じる事だそうです。はるかかなたの海水温の異常が、めぐりめぐって日本の冷夏を引き起こす。こんな説明で納得する人は、科学に毒されている人でしょう。エルニーニョだから今年は涼しい。ではなぜはるかかなたの海水温とこの日本の夏の気温が関係しているのでしょうか。肝心なそこの所は誰も説明できません。それなのに気象予報士は、あたかも「原因」を説明尽くしたかのようにエルニーニョ現象ですと言う。聞いた方も、ああそうかと、分かったつもりになってしまう。本当の「原因」は分かってはいません。

もう少し説明しますと、気象予報士とその説明に納得した気になる人は、冷夏の原因にエルニーニョ現象という名前を付ける事によって、原因と結果の両方を捕まえた気になってしまう人達なのです。ですから、海水温が南極から溶け出した氷に由来して下がるとか、それが太平洋の反対側の極東の夏の気温にどのように影響するとかを、もっと突き詰めて説明しなくてはなりません(その点を気象学者たちは懸命に解明するでしょう。すでにいくつかの仮説は立てられているのかも知れません。)。ですから本物の科学は自らの限界を良く知っているのですが、さわりだけをかじったような「物知り」が、「エルニーニョ現象」という言葉でもって何かを分かったつもりになっている事に抗議したいのです。

この話で言いたかったのは、生命の「原因」をDNAと言おうがDNAの力と言おうが、空欄であるxに名前を付けただけに過ぎないのではないかという事です。気象の話ではxはエルニーニョでした。生命ではDNAです。本当に知りたいのはDNAがどうしてそうした働きをするか、どうやって生まれてきたのかでしょう。残念ながらそうした問にキッチリと答えてくれる科学は未だありません。はっきり言えば、そうした問に答える事を避けて来たからこそ科学はここまで進展してきたのです。いつかもっと科学が進めばと、期待するのは楽天的過ぎます。

第 3 話

第1話の中で「思う」という言葉をカッコ付きで強調していますが、私たちには「思う」事しか出来ないのではありませんか。

確かに私たちには「思う」事しか出来ないのかも知れません。しかし、あなたの事を「思う」のと、この算数の問題の答えは4だと「思う」のは同じでしょうか。あるいは、首相の発言は馬鹿げていると「思う」のと、来月はどうやって生活費を稼ごうかと「思う」のではどうでしょうか。

算数の場合は計算の規則に正しく従っていれば、その4だと「思う」事は4「である」と全く同じです。ある人の発言を馬鹿げていると「思う」のは、当然ですが正しい場合と正しくない場合があります。

あなたの事を「思う」場合や、生活費を「思う」場合は正しいとも正しくないとも決められません。どちらとも言えないこうした例を、哲学では命題ではないと呼び問題にしません。問題になるのは正しかったり、正しくなかったりする方で、それらを命題と呼びます。算数の問題は○が付けられたり×が付けられたりするのは、それが命題だからです。ある人の発言を馬鹿げていると思う方はどうでしょうか。○や×をどうやって付けたら良いのでしょうか。

命題という言葉を使う人たちは、今すぐに○や×を付けられなくても、いずれ付けられるはずのものは命題だと決めています。したがって、明日雨が降る、というのも命題になります。

私たちの「思う」事にはこうして、正しい場合と誤った場合があるのです。しかし算数のように「である」と同じとされる「思う」がある一方で、即座に決められない「思う」もあります。

第1話で使った、魂があると「思う」場合はどうでしょうか。そう思っていたのは古代ギリシアの一般市民です。彼らの「思う」は、正しい場合もあれば、正しくない場合もあるでしょう。あなたや私の場合も同じでしょうか。私たちは決められない事を延々と話し合っている、穀潰しなのでしょうか。

我々人間の思考や判断は正しい事もあれば、誤る事もあります。従ってどんなに明瞭で、明晰と「思われ」ても、後になって誤りである事が、同程度の明瞭さ・明晰さをもって「思われ」る事があります。絶対不変と思われてきた真理が、覆され得る事は人類の歴史を見れば残念ながら明らかです。この点は科学において最も顕著であるとも言えるでしょう。

ましてや一般人の日常的思考では、正しい事・真理であると「思われ」ていた事態が、誤りであると判明する事がしばしばあります。こうした事情をご存知のはずのあなたが、生命の問題になると物質に信を寄せて、「科学的」見解を正しいと「思って」いるのには、何か重大な論拠があるのでしょうか。そういう事を言いたかったのです。

第4話

魂にしたって神にしたって、2000年以上もいろいろな人たちが話し合ってきたのに、決着していないようにさえ見えます。明日の天気ならば、明日になれば決着しますが、どうやら哲学の問題は永遠に決着しないのかも知れませんね。

今の日本では決着しない命題を扱う哲学は、穀潰しと言われてしまうようです。言われてばかりでは「しゃく」なので、少し弁解をしてみます。哲学不要論に対する反論は様々な観点から出来るのですが、ここでは「哲学は命題を扱うのか」に絞って話してみます。

第三話でお話したように命題とは、正しいか誤っているか言い換えれば、真・偽が問える文章の事を指します。もちろん、世の中の文章全てが命題ではありません。最初の哲学者という名誉ある称号をアリストテレスから頂いた、タレースという小アジアに暮らしたギリシア人は、「万物の根源は水である」と言ったと伝えられています。この文章は命題です。しかも多くの人は偽である(誤った)命題と言うでしょう。ではそうした意味で偽である命題から、人は何を学ぶ事が出来るのでしょうか。タレースに限らず、今日の最先端の学説でさえ、未来永劫にわたって真である事を保障された命題などありはしないと、先に私は言いました。この点で哲学者と科学者は同じ位置にいます。

あるいは、タレースは科学者であると主張する人がいるかも知れません。するとその場合、我々が非難しているのは哲学者であれ、科学者であれ、偽なる命題を提示する人だという事になり、哲学者だけが非難の対象ではなくなります。

しかし本当に、偽なる命題から我々は何も学ぶ事が出来ないのでしょうか。単なる「反面教師」以上の事を。「反面教師」とは、中国の革命家が言った言葉だそうで、日本で言えば「人の振り見て、我が振り直せ」といったような意味です。

ここでは二通りの道があるように思われます。タレースが言った「水」とは何だったのかを考えるのが第一の道です。もし彼が、我々が毎日飲んでいる普通の水を根源だと考えていたのなら、やはり反面教師でしかない事になります。しかしタレースの言う「水」が普通の水ではなく、水という同じ言葉を使いながら特別なモノを考えていたのならどうでしょうか。

このモノとは物質であるとは限りません。この世界の中には無い、つまりこの世界を生み出した文字通りの「根源」を、水のように固体・液体・気体と姿を変え、この世界のあらゆるものを産み出した、別次元のモノをとらえて、それを仮に「水」という名で口にしたと考えるのです。

こう考えてみると、彼の命題はあながち偽とは言い切れなくなるようにも思えてきます。この世界に無いモノを無理矢理口にしてしまったのですから、言葉に適切さを欠いていた事は承知の上です。その点をとらえて批判するのは簡単ですが、それでは批判される方が一枚上手です。批判される彼の見渡している世界は、批判する人々の世界より広いからです。これでは単に言葉尻をとらえた批判にしかなりません。そこまで考えた上でないとタレースを批判出来ないのではないかと思うのです。

もう一つの道(解決法)は、彼が言う水をこの世界の水だとしても、とにかく一つのモノから世界を説明し(ようとし)た点で、評価するというものです。彼以前には、たとえ幼稚なものであっても世界全体の始まりについて理論立って「説明」を与える事はなされて来ませんでした。哲学は「驚き」から生まれたとも言われます。しかし単なる驚きだけではありません。その驚きを他人に説明しようとするのが、哲学の(そして学問一般の)特徴です。

タレースよりも前の人、詩人ヘシオドスは神話の中で、カオスが生じ、ガイア、タルタロス、そしてエロ−スが生じたと世界の始まりについて歌います(『神統記』116行以下)。しかしそうした詞は、歌われ、語られ、教えられるものではあっても、どうやら、他人に理論的に説明しようとはしていないと思われるのです。俗な言い換えをすれば、分かる人にだけ判ってもらえば良い、といった態度なのです。ここでの分かる人とは、別にヘシオドスに教えてもらわなくても分かっている人たちです。ですからそこには驚きも説明もありません。

タレースの(情報量が少ないので)稚拙な説明を、笑う事は簡単ですが、このように考えてみると、初めて驚きから説明へと一歩を踏み出した彼はやはり偉大だったと言えるのかも知れません。

話が逸れてしまったのかも知れませんので戻しましょう。

タレースの主張した「命題」(少なくとも彼にはそう思われていた)は、ざっと考えても以上のような事を我々に考えさせます。彼の命題は偽であるとしても、意味のある命題であったわけです。真である命題にも意味のあるものと、意味のないものとがあります。

「晴れた日は天気がよい」というのは常に真である命題ですが、意味がないと言われています。あえて言えば、「晴れた日」と「天気がよい」というのをイコールで結んだという、言葉の使い方を例えば外国人に教える場合には、意味を持った命題でしょう。しかし言葉の使い方を知っている人にとっては、何らかの新しい情報を付け加えてくれないという意味で、意味がありません。

指し示している事柄は同じなのに、それが呼ばれる名前だけが違う2つのものを=で結んだからです。タレース(そしてもちろん他の哲学者)の場合はどうでしょうか。「万物の根源」を「水」と言う事は、どんな新しい情報をもたらしたのでしょうか。それまで誰も考えてもみなかった「万物」の「根源」を話題にした点で、まず意味があると考えられます。しかも単なる言葉の用法を伝えるばかりでなく、「万物の根源」というものを話題にすえる、という事をやってのけているのです。まあこの言葉自体はタレースの事を報告しているアリストテレスの発案であった可能性もあるのですが、この命題の持つ意味についてはどちらの哲学者に栄誉を帰してもかまわないでしょう。

またそれを「水」という、誰の周りにでもあるフツーのものと言ってのけた点で、おおいに人々の関心を呼びます。何せ私たちも、上であれこれ想像をしてみたわけですから。

このように考えるならば、哲学者の発言は偽であっても命題なのであり、しかも意味のある命題であり、さらに関心を集める命題だと言えるでしょう。後の時代の他の人々の発言が、たとえ内容として新しい情報を含んでいたとしても、その道筋をつけたのは、この場合ではタレースであると言って良いでしょう。

道筋と言うか話題の枠組みを提供したと言うかいずれにせよそういう意味で、「新しい情報」をこの命題は含んでいると言えます。決着しない問題だから考える事は無駄だとおっしゃるなら、それ以上言う事は出来ませんが、何かこれで全て決着したと言えるものがあるでしょうか。科学ですら、完全に決着した問題なんて、あったとしてもごくわずかです。ですからそれを無駄だと断言されてしまうなら、何も言えなくなってしまいます。そうではなくて、問題の枠組みというか考え方それ自体に誤りがあるなら、それを指摘し別のやり方で考えてゆく事が健全な対応と言えるでしょう。しかしそうする事は、すでに哲学している事になるのではないかとも思います。

第5話

この世界を作っているものが、原子と空虚だとしたら、愛、正義、人格の立派さなども、原子と空虚から出来ている事になるのではありませんか。

原子と空虚とおっしゃられるところを見ると、デモクリトスの事を勉強なさったんですね。彼は友人のレウキッポスと共に、アリストテレスによって原子論の創始者といわれている人です(『形而上学』1巻4章参照)。前に触れたタレースと同じく岩波から手に入る『初期ギリシア哲学者断片集』という本にも一部が翻訳されていますので、ご覧になって下さい。

デモクリトスも魂を考えていますが、もちろんそれをアトム(原子)だと言っています。生物が動いているのは魂によるのだと考えたのです。自分自身も動きながら他の物に動きを与える、そういうものを彼は魂と考えたのです。Diels と Kranz の編さんした断片集の番号で、B170という所では「幸福と不幸は魂にかかっている」とまで言っています。また彼は幸福や善について数多くの著作を(残念ながらほとんど現存してはいないが)、残したと伝えられています。

ローマ時代(BCE99-55)の原子論者であるルクレティウスの『自然の本性について』も、岩波文庫の訳で読めるでしょう。少しお読みになると分かるように、ルクレティウスはひたすらデモクリトスの説を解説しているのです。しかし題名からも分かる通り、自然に関する分野を書き終えた所で亡くなってしまったようです。ここから先は推測ですが、原子論者達もあなたが気にしている、価値に関する事柄を重要だと考えていたようです。しかし「原子論に基づいて」何らかの事を言っていたかどうかは議論のあるところです。その多くは残っていないのではっきりした事は分かりませんが、ともかく今言ったように、特に人間の幸福には関心があったようです。

今日の近代的・科学的原子論を信ずる科学者でさえ、人間の幸福や価値の問題を無視はしません。つまり彼らの多くも、原子と空虚から成立しているこの世界に、あなたが言われるような善や立派さ、愛というものがあると考えています。するとそうしたものも、原子と空虚から出来ているのでしょうか。もしそうなら、何も悲観する事はありません。魂や、目に見えない物どもを認めなくたって、善や幸福、愛といったものは決して否定されるわけではないのです。

第6話

哲学は世界の全体を相手にし、科学は世界の一部を相手にすると、本で読みました。しかし例えば、本物の医者は患者の体だけではなく、患者の全体を考えて診察・治療するのではありませんか?

そうした医者は立派な、本物の医者です。あなたが考えているような事を、プラトンは『国家』という題名の本の第三巻の中で言っています。岩波文庫のページ(上巻)を挙げますと、228 ページからを見て下さい( 228Dff )。神アポローンの子とされる、それはそれは偉いアスクレピオスという医者の鏡は、病気だけではなく患者の全体を見て治療を施したとプラトンは伝えています。236ページ(408E)位までお読み頂けると、プラトンの考える理想の医者像が分かって頂けると思います。最後の所で、「医者は魂によって身体を治療する」とまで言っています。

しかしそんな医者は、あなたが言う所の「科学」者でしょうか?プラトンがそこで語っている話は、彼の考える理想の国の医者の話です。今日そのような医者がいたとしたなら、その医者自身が「哲学者」と呼ばれるでしょう。なにせその医者は、お読み頂いたように、回復の見込みのない患者には治療を施してやらないのですから(233ページ,407E)。しかしプラトンの時代ですら現実の医者たちは、ヘロディコス以降(229ページ,406A)、今日のような治療をしていたようです。ですから、あなたが言う所の「本物の医者」は、プラトンが考える本物の医者ですが、「科学者」としての医者の方が、現実には多いとしても不思議はありません。

第7話

「感覚」と「知覚」の違いって何ですか?英語で、"sense-perception"と言う事があると思いますが、それはどちらの意味を指しているのでしょうか?また、ギリシア語では何といいますか?

一般に、「感覚」=sense,sensationは、外界からの刺激が、感覚器官や神経組織を通じて取り入れられる過程を指すようです。対して、「知覚」=perceptionは、感覚を通じて得られた情報を元にして、「判断」したり「考え」たりする過程を指します。sense-perceptionという英語は、感覚と知覚を明確に分けないのかも知れませんが、両者は厳密には別物として区別されます。「判断」や「思考(考え)」が含まれる時、それを単なる「感覚」と分けて、「知覚」と言います。

ところがご質問にあったギリシア語では、哲学史などの本を見ると、感覚と知覚を区別しないと書いてあるかも知れません。しかしそれは嘘です。両者を指すギリシア語はαισθησις  (aisthesis)という1語ですが、単なる感覚に「κρισις = 判断」の加わったものを知覚として、アリストテレスは『魂について=(De Anima)』第3巻第3章において(427a17ff)、krineinやgnorizein,phroneinを含む知覚と、それらを含まない単なる感覚を分けているように思われますし、プロティノスも『魂に関する諸問題I』(IV.3.26)で、魂の行う判断を知覚としているように思われます。

この点についてプロティノスは、III.6.1でもっとはっきりと、「aisthesisは現実活動であり、判断である」として、単なる外界からの受動としての「感覚」と、「知覚」を分けています。ただその際の原語は依然として共にaisthesisですから、区分していないと見られるのでしょう。我々の考える「知覚」に近い単語としては、αντιληψις = antilepsis(把握)という語をプロティノスは使う事もあります。

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